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雪の下で

白く冷たい扉の向こうで、大きな音がした。地鳴りのような音。荒れた海のような音。聞きたくない。私はぎゅっと耳を塞いだ。
 祖父はパーキンソン病だった。八十七を超えたあたりから、歩くことも話すこともできなくなり、山奥の静かな介護施設に入居した。私が祖父に会えるのは長期休暇の中の数日だけ。その日は冬の太陽が高く聳える晴天だった。助手席の窓から空をぼうっと眺めていると母が「おじいちゃん、今日はどら焼き食べてくれるかね。」と言った。無理に食べさせなくて良いよ。喉に詰まったらどうするの。私は「食べて欲しいね。」と言って、終わりがないみたいな青空を目の中に無理やり流した。
 施設は数年前にできたばかりで、壁が新品のように輝いていた。白い扉を開けるとやせ細った祖父がベッドに横たわっていた。口を大きく開け、濁点をたくさんつけながら息を吸う。それから、線香の煙みたいに細く、細く吐く。
「おじいちゃん、とまりが来たよ。もう少しで大学三年生だってよー」母がどら焼きの袋に手をかけながら言った。一口大になったどら焼きが、母の手から大きな音がする口へと渡された。私は笑顔でいようと必死だった。ワンピースの裾をぎゅっと握って口角を上げる。笑っていなきゃいけない。「おじいちゃん、またね。次は春に来るからね。」白い扉を閉める。上手に笑えていたかはわからない。
 
春は来なかった。床の間で冷たくなった祖父はあまりにも静かだった。終わってしまったのだと気がついた。祖父が苦しそうに呼吸をしていたことも、祖父の周りにどこか哀しい空気が流れていたことも、どんなに目をそらしても事実であったのだと認めざるを得なかった。
「最後なんだからよく顔見てあげて。」母が言った。
ああ、そうだ。おじいちゃんはこんな顔をしていたんだった。いなくならないで欲しかっただけなのにあなたの顔すらちゃんと見れていなかった。
白く冷たい扉の向こうには長い、長い静寂があった。

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