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テクスト止めたテクスト。テクストとメタテクスト(「ぬるめた」の話)

「ぬるめた」買いました。

ぬるめた:
2018年からネット絵描きこかむもがニコニコ漫画で“趣味で”連載し始めた作品がプロトタイプとなり、きらら編集部に声をかけられてそのまま読み切り、連載、単行本出版までこぎつけた作品。
きらら漫画(美少女漫画。ごちうさとか)の皮をかぶっている――もちろんその魅力は十分ある、その魅力だけでもやっていけそう――けど、核心はメタフィクション漫画。単行本最終話で本性を表した(プロトタイプからの読者としては嬉しい)。
ニコニコ漫画でのプロトタイプは現在も読める(がメタフィクションの核心に触れる挿話は非公開となった)。とりあえずプロトタイプの#4~#6まで読むとこの作品の魅力は大体わかる。

null-metaでぬるめた。

直訳すると「メタなし」って事になりそうだが、直接否定とかアイロニー的表現は元のものを強く肯定するというのが常識だ。オルタナティブは王道抜きにして存在できない。むしろ王道とべったりだからオルタナティブがやれるのだ。「メタなし」とはっきり言えるのはメタとべったりな証拠だろう。

何より、しゆきは「メタ発言を許されて」いるし、も猫は物語の外部にいる。これでいて「『ぬるめた』はメタフィクションじゃない」といい切るやつが居たらそいつはヤバイ。ヤバすぎる。

さて「ぬるめた」をべた褒めしよう。解釈違いだとか、そんなのちがうとか、文句があるやつはnote下部のコメント欄に集まれ。もっと好きな漫画の話をしよう。なんならdiscordサーバー作ってもいい。

さて「ぬるめた」がおもしろいのはそれが普通のメタフィクションではないからだ。普通のメタフィクションにおけるメタテクストは、僕らの世界とか作者のいる世界だ。筒井康隆がいい例で、彼は読者アンケートを巻き込んで僕らの生きるこの世界をメタテクストとして取り込み、メタフィクションを描いたりしてる。まあそれはそれで当時としては挑戦的だし普通に面白い。けど、今更あんまり新しいとは思わない。例えばゲーム。僕らはUNDERTALEを知っている。MOTHERを知っている。なんなら今度最新作が出るBRAVERYシリーズもそうだったし、同じチームが創ったOCTOPATH TRAVELER(プリムロゼ終盤劇場での劇中劇。その他キャラストーリー最後のモノローグの聞き手。気づいた日本人はあまりいないかも)でさえそうだった。メタフィクション演出は、プレイヤーに語りかけたり、クレジットに表示したり、物語=世界を批評したり、強度はどうあれ今やどんな作品でも見かけるようになった。だが、「ぬるめた」のそれは一味違う。

メタテクストの歴史をご存知だろうか。「ぬるめた」のメタ構造は歴史的に観ると古いタイプの(しかし現代のメディアでやるからこそ新しい)ものだという話をしたいのだが、この辺のニュアンスは文学史をちょこっとやらないと伝わりにくいと思う。なので、やる。

(長い文章読めない人は軽く見通すだけでええよ)

メタテクストの歴史:
一般に「メタフィクション」と言われる作品は、そのテクストが作品(あるいは虚構)であることを自覚ないし暗示するものである。このとき作品自体であるテキストと、もう1つ作品の外部(メタ)に存在するテクストが存在することになる。これが先程から言及するメタテクストだ。僕らが一般に知るメタフィクションでいう外部は僕らの世界のことであるから、この場合メタテクストは「僕らの現実についての記述一般」ということになる。
テクストの外部にメタテクストがあるという構造は比較的古い。「枠物語」でググって頂けるとすぐヒットするのだが、古くはサンスクリットの叙事詩から有名所では「千夜一夜物語」「デカメロン」などがある。一例を紹介しよう。「千夜一夜物語」はメタテクストとしては「王様に毎夜物語を聞かせる女性のお話」であり、その内部には個別のおとぎ話テクストが存在する。「千夜一夜物語」でのメタテクストとテクストの関係は、メタテクストが「千のおとぎ話テクストを語る事情を説明する」というものだ。これはメタフィクションのテクスト間関係とは別物である。ギリシアの叙事詩などがわかりやすいのだが、古代から枠物語でのメタテクストは個別のテクストの編集を可能にしたり、テクストを語りはじめる「まくら」の役割を果たしたりするもので、物語の虚構性を茶化したり真剣に考えたりするものではなかった。ギリシアの叙事詩は、その語り始めに必ずムーサ(文芸の女神)への祈りの文句から始まる。「叙事詩本編のテクストを語るのは、ムーサとの関わりからなのですよ」という事情説明というか「まくら」になるメタテクストが必ず存在したのだ。古代の物語というのは基本的に読むものではなく語るもの(大量複製できる印刷術がないので口伝が基本)だったので、もしかするとこの種のメタテクストは語り部が語り部としてのスイッチを切り替えるための儀式みたいなものだったかも知れない。配信者が最初に独自の挨拶をするようなものだ。
さて話が長引いてしまった。ここまでは、テクストとメタテクストが存在する文学(枠物語)は歴史が古いという話だ。今度は時代を飛ばして小説史における18世紀まで行ってみよう。
「小説史上、18世紀と17・19世紀との切れ目をどこに求めるかは定かではない」(『フランス文学史』1992 白水社 p.139)。これは18世紀が30年代の「小説論争」を代表とするテキスト批判の激動期であり、年代に即して小説を整序し時代を区分するのが難しい事情に起因する……のだが、このあたりの詳しい話をここでするつもりはない。ここではごく簡単に、18世紀の小説作品を一例として、小説史上の激動期を代表するテキスト間関係に言及したい。
さてまず18世紀に何があったのかということだが、小説の文学ジャンルにおける伸し上がりがあった。小説は一般に市民階級の文学であり、この時代市民階級の地位は向上したからだ。結果、「より高尚な文学ジャンル」である哲学や古典文学から小説は攻撃されることとなった。批判の矛先は2点。1つは小説が現実離れした虚構であるということ。もう1つは(リアルを追求すればするほど)公序良俗に反するとみなされたこと。これらを解消しようとすれば簡単にジレンマに陥る。小説をリアルに描こうとすれば公序良俗に反し、公序良俗を守ろうとすれば絵空事・虚構と揶揄される。汚いさすが哲学者汚い。小説に勝ったッ!小説史完!
とはならなかった。
まず小説は一人称視点になった。リアリティのために個人的体験や人間の内面が追求された結果、三人称視点主流だった小説は18世紀にはほとんど一人称視点となった。それにともなって、「一人称小説の一変種」(『フランス文学史』1992 白水社 p.140)として書簡体小説が発明される。クレビヨン・フィス Claude-Prosper Jolyot de CRE'BILLON (1707-77) の『M伯爵夫人のR伯爵への手紙』Lettres de la marquise de M*** au comte de R*** (1732)『心と精神の迷い』Les Egarements du coeur et de l'esprit (36-38) などがそうである。ここまでの小説史は上記のジレンマを解消しはしない。ただ、こうした歴史と並行してメタテクストが発明(発見)されたことで事情は変る。プレヴォー Antoine-Francois PRE'VOST, dit Pre'vost d'Exiles (1697-1763) の『マノン・レスコー』Historie du Chevalier Des Grieux et de Manon Lescaut (31) である。『マノン・レスコー』本編テクストで描かれるのは、公序良俗に反するような熱烈な恋愛物語なのだが、この小説には序文がついてる。邪魔くさいので引用はしないが、要は「マノン・レスコー本編が公序良俗に反する悪いお手本として教育上よい反面教師になる」ということが描いてあるのだ。そしてこれがメタテクストとして役割を果たす。表向きは序文メタテクストの言う通り、本編テクストは公序良俗に反する虚構であり、そういう価値があるから出版するのだという話になる。だが本編を読めばわかるのだが、テクストには序文に反して公序良俗に反することが性の証として鮮やかに描かれている。「こういうことやっちゃいけませんよ~」と言いながら囚人に「ショーシャンクの空に」とか「大脱出」を見せるようなものだ。序文メタテクストの表向きの文言は、表向きのとおりには機能していない。面白いのはむしろ、メタテクストがある意味で「嘘」であり偽物であるということが、テクストを読むほどに明らかになり、読者は虚構であるはずの本編テクストのほうが「本物だ」と思ってしまうことである。テクストを否定するメタテクストをテクストが否定することによって、テクストの虚構性が破られる。メタフィクションのように直接あるいは間接に僕らの生きる現実に言及することなしに、この種のメタテクストはテクスト本編のリアリティを演出するのだ。

おまたせした。「ぬるめた」に話を戻そう。

テクストとメタテクストの関係は古い。メタフィクションが興隆する以前からテクストに言及するテクストは存在した。そして、「ぬるめた」のメタフィクションはいわゆる現代のメタフィクションではなく、どちらかというとこの古いタイプのテクスト関係に類する。

BOOTHの作品やPixiv、きらら連載前にニコニコ漫画で公開されていた挿話を見ればわかるが、「ぬるめた」には「六角幕府」等のフィクション群からなるメタ作品(その一部は「ぬるめた」という作品に言及することさえ出来る)が存在する。いや、きらら連載前後で区別して、「存在した」というべきなのかも知れない。きらら版「ぬるめた」で、も猫の紹介文には「この『ぬるめた』」という表現があり、こかむもはきらら前後の「ぬるめた」を自覚的に区別しているようなのだ。よって批評(のようなこと)をやる我々も、きらら前後で「ぬるめた」を区別しておいたほうが良さそうだ。

ともかく、少なくともきらら前の「ぬるめた」はメタフィクションとしては『マノン・レスコー』の系譜にあたる。メタテクスト作品群から見れば「ぬるめた」は虚構であるのだが、「ぬるめた」本編テクストは#6に代表されるメタ言及によってメタテクスト作品群に匹敵する資格があることが暗示されるのだ。ここではメタテクスト作品群が物語外の宇宙として「ぬるめた」を虚構として否定することで実在性を主張し、テクストはそれに接近することで虚構性から脱却し実在性を獲得しようとするという構造が描かれる。もっと単純化して言えば、メタテクストがテクストに実在性を与えているのだ。この構図はまさに『マノン・レスコー』と同じである。少なくともメタテクストがテクストを否定したり茶化したりすることで、虚構であることを開き直るような(山崎貴のドラクエや、BRAVERY SECONDなど)現代のメタフィクションと「ぬるめた」は全く別の方向性を持っている。

さて、「ぬるめた」のメタフィクションとしての特異性(あるいは良さ)はこれだけなのだろうか。だとすればきらら以前の「ぬるめた」だけを肯定することになるが、大丈夫か?

大丈夫なわけあるか。このまま終わったら大事なことを見逃すことになる。

すなわち、「ぬるめた」は『マノン・レスコー』の系譜にある。それはきらら以前でも以後でも変わらない。むしろきらら以後のほうがより『マノン・レスコー』的と言える。どういうことか。

我々は大事な事実を見逃している。それは2018年から「ぬるめた」を追っていれば誰もがわかることだ。すなわち、きらら以後「ぬるめた」からメタテクスト作品群(特にニコニコ漫画での挿話)が排除されたという事実である。どういうことかわかるだろうか。我々は今、否定されたメタテクストを手にしているのだ。つまり、「ぬるめた」にはかつてその作品宇宙を包摂する外部宇宙としての作品(群)が存在したという事実が、我々がきらら以後の「ぬるめた」を読むときのメタ情報として存在する。これは作者こかむもを含めた、きらら版「ぬるめた」の「も猫紹介文」における「この『ぬるめた』」という表現を理解するすべての人間に該当する事実である。さて、ここで何が言えるかが重要である。よく聞け。

きらら以後「ぬるめた」は旧メタテクスト(メタ作品群)を廃棄したというメタ情報が、メタテクストとしてきらら版「ぬるめた」が「もはや旧メタテクストを必要としないだけの実在性を持つ」という意味を本編テクストに与えるのだ。

きらら版「ぬるめた」のテクストは、メタテクストを止めたテクストだ。

これは完全に『マノン・レスコー』の構造と同じである。メタテクストの否定によってテクストが実在性を獲得する。「ぬるめた」はやはり『マノン・レスコー』の系譜にあるのだ。

我々は安心してよい。今や、くるみたちが単なる虚構の人物かもしれないと悩まなくても良い。彼らは生きている。もはや、きらら版#13において「ぬるめた」だけでメタ展開をやり通すほどのフィクションとしての強度がある。それによって「ぬるめた」の虚構性が暴かれたり、DOV STRAGEが動き出したりはしない。

少なくとも、電気羊がソファの裏に隠れているうちは。


おわり

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