エリートから降りられない東大生の話

数日前、「前に座ってる経済学徒が『東大経済いて、外銀外コン総合商社デベ官僚以外は落ちこぼれ』と豪語した」というツイートを見かけました。

またアホ学生がなんか抜かしてるわ、って無視することもできるんですが。
この意見に賛同する気は全くないけど、このような思考回路になる東大生が存在することは正直言って理解できるんですよ。

実際、自分にこの意識が全くないのかって言われると、少し否定しがたいから。例えば、自分が日本の大企業に就職して同じ大学の友達が有名な外資のコンサル会社とかに行ったら劣等感・敗北感を抱く可能性はあるかなーと思います。

でもなんでこんなことが起こるんでしょうか?そんな見栄のために就職先まで決めてたらやってられないですよね。

これには、東大生がいかにして東大生になったかという点が影響している気がします。

名門中高に通っていたか、校内でトップクラスの成績だったか。東大生の中には、このどちらかだった人、かなりいるはずです。そのような環境で生活する中で自然に自分を高く位置付けるようになっていても不思議ではない(実際受験勉強のアウトプットの出来具合という評価軸に限ればエリート以外の何者でもない)。
また、東大に入ってから「自分ってもしかして社会の中でエリートなんじゃね?って思うようになる人もいるでしょう。

簡単に言えば、彼らはエリート街道を歩むことに慣れており、典型的なエリート街道を選ぶこと、あるいは、自分が典型的なエリートの道を歩み続ける能力を持っていると示せること、そういうことをやり続けたいと思っている。(典型的なエリート街道ってところが多分ポイントで、例えば本当に学業が優秀な生徒なら院進とかも考えると思うんですけど、おそらくそういうことではなくて、ここでのエリート街道ってのはもっと世間体を意識したエリートです)

将来どんな仕事をして生きていくかということに関して、当然どんな道もそれぞれ長短がある。だけど、彼らの基準は、自分・世間が思っているエリート像から自分が外れてないか、になるわけです。
生涯年収とか最終的な地位とか、もちろんみんな多少考えてるはず。だけど、そういう最終的な結果よりも、今自分がエリートの道からリタイアしていないこと、まだレースのトップを走っている状態をキープすることを優先した結果、自分が描くエリート像から出ない範囲しか選択肢がなくなる。

そしてもしこのような「エリートかエリートでないか」という評価軸を基準に据えるならば、確かに他の道を選べなくなる。

その結果が冒頭の発言。


要は、「エリートから降りられなくなっちゃった」んですよ。いつのまにか。僕は少なくともそんなつもりはなかった。特に志もなくかなりフワッとした動機で東大に来た。そして周りを見てるとそういう人はけっこう多い。たまに「将来やりたいことがなさすぎる」みたいな話をしたりするほどには。それも何人とも話したことあります。

山登りの例でも使って考えてみます。
この考え方は傲慢で好きではないですが、東大生は同世代の中では社会的地位の山をかなり高く登っている、としましょう。少なくとも本人の意識にかかわらず周囲からはそのようにみられうる。
ただ、その相対的な地位の高さというのは、受験の結果でリードしてるだけで、単純に現状の見晴らしが良いというだけなはず。本当はその状態を生かして自分が本当に登りたい山(=関心があるフィールド)を探すべきなんだけど、今の山を一番に登り切ることばかりに関心がいってしまう。


そしてこの「エリートから降りられない」という現象は、特に文科一類・文科二類に顕著な気がします(理系は知らない)。

これに気づいたのは文三の人と進路について話した時。
文科三類出身の人は割とやりたいことベースで進路を選んでる気がしたんですよね。その人は推薦だったしそんなにサンプル数は多くないのでわからないですが、そもそも入試の時に文学部とリンクしている文科三類を選ぶということは、何かしら歴史であったり教育であったり興味分野がすでにあったんじゃないかなと。文科三類の人たちは、法学部に行きやすい文科一類や経済学部に行きやすい文科二類ではなくわざわざ文学部・教育学部系を選んだわけです。この3つの中だと文学部って一番就職しんどそうじゃないですか?だからなんでもいいって人はあんまり文科三類を選ばないのでは(合格最低点が東大の中で一番低いから選んだ人はいると思います)?という理屈です。

そしてその意識は就職先を選ぶときの判断基準にも繋がっていて、進路を選ぶ際にかかる第一のフィルターが「自分の興味がある内容かどうか」になっている。あくまで自分が興味を持てる範囲の中で、楽しさ・収入・社会的地位などの評価指標が入ってくる。

一方、文科一類・文科二類の人はそうではない可能性がある。僕がそう思う理由は彼らが文一・文二を選んだ理由にあります。
特に、文一って文系の中で最も偏差値が高い大学の最も偏差値の高い学部で、だから文一を選んだって人、割といると思うんですよ。文二だって、法律と経済だったらどっちかというと経済の方がいいなぁ程度で選んだ人かなりいると思います。ちなみに僕はそうです。

そしてその結果、「エリートから外れない道」が将来を選ぶ際の一番目のフィルターになっている人が出てくる、と。自分たちが思うエリート像から外れない範囲にまず絞った上で、その中から自分に適した進路を探す。




自分が高校生の時、学校や塾の教師は「東大に行った方が選択肢が広がる」ってみんな言ってました。
でもそれほんと?
って感じます。

いや嘘ではないですけど。東大に行ったとしても、何も抵抗しなければそのままみんなが想定しているような「エリートっぽい道」をなぞるだけで終わってしまうだろうなと、進路について考えるようになってから思うようになりました。
だって、高い山から飛び降りるのって簡単じゃないですよ?

確かに崖の下から上に一瞬で登ることは物理的に不可能。一方、山の中腹にいたら上も目指せるし下にもすぐいけると。物理的には可能です。

でも一旦上に登ったら簡単には下に降りれなくない?
だって崖から無傷で飛び降りれるはずないでしょ?山の上から一瞬でふもとに降りれる人間なんていない。単に受験で点を人より多く取れただけの人間に羽なんか生えてない。
東大を出て社会的地位の高くない仕事につくにはきっと意志が必要。ふと「周りの東大出たやつらは今あんなすごいことやってるのに」ってなるかもしれない。周りの人は「東大出たのにあんな仕事やってるの?」って言うかもしれない。それって多分かなり勇気も覚悟もいるんじゃないかなって。

一つ言えるのは、この道を登りきれる人は本当に少ない。それは今僕が下から見てもわかる。今エリートの道の入り口に立てる人で20年後もそこを進み続けられる人はどれほどいるだろうか。

エリートの道を歩み続けた結果その道からこぼれ落ちてもそこから他の山にはなかなか行けないかもしれない。なぜならある程度のところまで降りないと他のところに行けないから。
そして、もし脱落せずその道をこのまま登っていけるとして、その先に何があるのか、本当にこれは幸せな道なのかもわからない。

そんな中で自分は抜け道を見つけて、あるいは作って、そこを歩いていくという選択肢を持てるか?
自分は一旦崖から飛び降りる手段と勇気を持てるか?
自分はこのエリート街道を進む競争から上手く降りられるか?
回り道になったとしても某経済学徒が言う「落ちこぼれ」の初手を打てるか?


このままエリートかどうかを自分の軸にすると絶対どこかでしんどくなる。自分が死ぬまでその道を辿れるとは到底思えないから。

だから僕はそういう「エリート」から降りたい

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?