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近況つれづれ:生まない生めない人間には価値がないと言っているような「社会」に興味が持てなくて

さいきん、「社会」というものに、ますます、いよいよ、興味が持てなくなってきている。

冷める、というか、しらけるというか。寒いなー、と。

きょう、スープストックで、離乳食を無償提供するというニュースに、ネットでいろんな意見が寄せられているのを見た。

スープストックは、自分のとても好きな居場所だ。20代のときから、もう何杯スープをここで食べたか、何回利用したのか数えられないくらいだし、どれだけの時間滞在したのかや、いまも自分にとっても欠かせない居場所であることとか、なによりもすごくおいしいし、出かける先々に、そこにスープストックがあるかどうかということが、常に大事だったりする。

だから、自分は、素直に、そのニュースを見て、悲しい、と思った。同時に、会社としての社会的責任を果たす意味での選択なのだから、事業の方針に口をはさむ気にもならなかった。

「悲しい」と思ったのには、いくつか、複雑に絡み合う理由がわたしにはある。

まず純粋にわたしは、聴覚過敏で、子どもの発する声というのが苦手、というか、ただ単に「苦手」ですむレベルではないので、いつも避難が強いられていること。

休日のファミレスとかショッピングモールとか、明らかに子どもの声を回避できない場所には近づかないとか、自己防衛して行動制限している。

だけど、どれだけ自己防衛したって、公共機関とか、どうしてもできてしまう人混みや病院とかでは、それを避けられない。

これが聴覚過敏を持つ人間にとって、どういうことになるかは、想像していただきたい。

仮に自分が「子連れ」の立場だったら、TPOを考えて店は選ぶだろうし、どうしても強行突破しようなんて人は、あまりいないのではないかとは思う。

郊外型のショッピングモールのフードコートみたいなところならまだしも、ベビーカーの動線も確保できない都会とかの狭い店内に子連れで入ったところで、落ち着かないし、気疲れもするだろうし、おいしいものもおいしく感じられなさそうだし、誰も幸せにはならなそうだから。だから、ネットの意見は賛否ともども過剰反応だなとは思う。

「自分だって、かつてはうるさい子どもだったわけじゃないですか」という意見に対しては、わたしは自閉症児だったから、なにも言葉や感情を面に出さず、子どもながらに、うるさい子どもにさらされて聴覚過敏でダメージを食らっていたし、欲望や感情を表出して察してもらえる強者の子どもにいつも遠慮して、割を食っていた。

わたしだって、感情もあるし、なんなら、表出できる子にくらべて、ずっと繊細で、豊かだと思ってきた。

そういうことをいうと、「被害者ぶって」なんて醜い言葉が聞こえてくるけれど、フラットに考えて、やっぱり割を食ってるな、と思わずにはいられない日常の積み重ねがある。

それで、思ったこと。どうして、社会なり政治なり世論なり財源なりスポンサーなりに寄っていることを普段から考えたり言っている人たちは、それが「正しい」ことだといって、どんどんその人たちの意見に沿った「暮らしやすい世の中」「働きやすい世の中」というものができていくのに、

「少数派」とざっくり言ってしまうのは乱暴かもしれないけれど、そんなようなたぐいの人は、「それは個人で思ってるだけのことでしょ」とか言われて、「社会」からは、どれだけ筋が通っていて「正しい」ことでも、相手にもされないし、スポンサーも財源もつかないし、政治家に立候補したってぜったいに受からないし、記事を書いたって企画段階で採用されないし、仮にチャレンジングなものとして出したって特定層に読まれて終わりみたいな、自分の記念碑的なものにしかならない。そんな自己満なんてわたしはいらない。

かたや自分の思っていることが、社会をよりよくすることにもつながって、より生きやすい働きやすい社会になっていって好循環していくというメリットがあるのにたいして、「自分ごと」にするたびに、距離をとらなきゃいけないのだったら、なんのお付き合いのボランティアなんだろう、って、わたしだったら冷めていくよなあ。



そうやって、いつも、そんなようなことをないがしろにされることが、日々日々積み重なってきた結果、けれども、その人だって、社会に「アクション」を起こそうと思ったら、そりゃ(そういうことはあってはならないことだけれど)首相を銃撃しようとしたりとかする表出方法になってしまうのではないかなあと。

だって、言論というアクションじゃあ、通じないし、見向きもされないから。なら、そうやって抹殺したやつを、なにで捻じ伏せるのかといったら、そういう方法になるという思考回路なのではないかなあ。

でも、社会的に「正しい」ことに沿ったことを言えば、それは「個人」のことを話しているのに、その「自分ごと」は、社会全体を考えている立派なこと、とすり替えられてとらえてる。

どんな考えだって、初めは個人的なことだったり、いや、最初から最後まで「自分ごと」「ごくごく個人的なこと」なのに、それが「社会」にとってカネにならないものは静かに抹殺されていくなかで、「2児の母」だの「2児の父」だのと個人の立場でもって、「女性目線で」「母親目線で」、などといって、アヤパンがニュースのキャスターをしたり、そういう選挙ポスターで立候補したりする。

そんな乱暴な抹殺行為をする社会(とわたしにはみえる社会)が、わたしはとてもとても息苦しい。さいきんますます、息苦しい。

わたしは結婚はしたけれど、子どもを持ちたいという気持ちは、プログラミングされていなかった。

もしかしたら、されていたのかもしれないけれど、複雑な家庭環境でねじくれてそうなってしまったのかは、いまさらもう、わからない。

あと、いつからかはわからないけれど、わりと物心つく時期には、生まれてこなければなにもかも始まる必要がないと思い、あらゆる不幸や理不尽は、生まれてしまったから起こるものだということを、悟ってしまった。

そんなふうに悟ってしまったものだから、もともと冷めていて、でも、冷めながらも、生まれてしまった事実はもう消せないから、すでに生まれてしまった以上は、幸せに生きたいと、冷めながらも、すごくポジティブだと自分ながらに思う(のだけど、そうじゃない人にとってはものすごく後ろ向きなんだろうな。「前向き」ってなんなんだろうね。人が期待する方向に自分をマインドセットして向かせることを前向きっていうのならうなずける)。

ごくさいきん、そのような考えを持つ人を、反出生主義というらしいということを知った。数はそんなに多くないけど、わりと昔から普通にある考え方のひとつらしい。

中学時代くらいに、もうあらゆる無駄な命を生み出すのは人類みんなもうやめましょうよという
世界滅亡計画とか、教祖になったらどうやってその計画実行するかとかいろいろまじめにこそこそ考えてた時期があるけど、わりとそういう人もいるらしい。

でも、だからといって、反出生主義じゃない人だったり、生まれてきたものを、祝福しないとか、憎くて殺したいとかは思わない。

というのも、わたし自身が、他人の思想や正しさに巻き込まれたくないから、自分がそういうことを逆に人にしたくない、という理由で。

それぞれの考えがあるなかで、うまく棲み分けられればいいと思って、ここはなにか自分が言って波風をたてるよりかは、さーっとひいて、場の空気を読んで、どうぞどうぞと、なぜか遠慮して、そうやってわたしは基本的には世をわたってきた。

ちょいちょいアクションも起こしてはいるけど(反社会的ではない)、波風がたちすぎたらこれ以上たてないように自分から身を引いたりして、そうしたアクションを通して、自分は基本、争いたくない人だったんだということに気づいたのだった。

さいきん、政府も生まれてくる子への手当てや子育て世帯への支援を拡充していく方針を明らかにした。

どうぞどうぞという冷めた気持ちの一方で、ますます生まないあるいは生めない人間は人として価値がないというメッセージのように、そんなことは言ってはいなくて、被害者みたいな受け取り方だと言われるかもしれないけれど、そんなふうに思って、とても息苦しくなった。

子育てをしている人たちは、もっと子どもを産み育てやすい環境をと、ますます声をあげて、その声が、個人的なエピソードだったとしても、その個人的なエピソードは社会全体の課題として吸収されて、きっと我が国は、ますますそうした人にとっては生きやすくなっていくんだろうな、働きやすくなっていくんだろうなと思う。

それだけならまだよかった。

だけど、スープストックのニュースで、社会や政治や企業の働き方改革や経済活動の動きだけでなくて、普段自分が、すごく好きな居場所だったスープストックでまで、そんなことはひとことも言っていないことはわかっているのだけど、身近な友人みたいな存在から「子育てしないお前は価値がない」と言われた気分になった。それが悲しかった。

スープストックのHPを見たら、「これまでのスープストックの利用者が、家族を持ったり子育て世代になってきたという変化があったため」みたいなようなことが書かれていて、それで思った。

自分には、そんな「変化」はなくて、むしろわたしが変わってなくて、「社会の体温をスープを通して上げたい」というテーマを持つスープストックという会社だったり、ひいては社会が求める時代の変化だったりに、合ってない存在にいよいよなったのだな、と、ただただ思った。

またひとつ、「社会」が遠くなった気がした。霞んで見えてきた。

これからも利用して、お金を落とせば、お客だけど、企業が追求したい「お客様像」とはわたしはちがうんだろうし、企業がイメージする「お客」ではないんだろうな、というふうに思った。

たとえば、聴覚過敏を持つわたしが、子どもの声に顔をゆがめ、退散するような、そんなイメージは描いていないだろうし。これでは社会の体温は上がらない、ってわけだ。

政治や社会が求める方向性に合致したことを言っていなければ、これまで以上に、まったくお金も動かないし、「誰の」役にもたたないし、情報砂漠のなかで初めからなかったように埋もれていくだけ。

そんなわたしが、社会にできる「アクション」は、社会参画でもない、選挙にいくことでもない、自分の幸福を、静かに追求することだった。さいきんは、そういうことに、さらに生きるうえで重きをおくようになった。

そのなかで、いまの時代にあったSNSとの向き合い方も、いろいろ考えて、これまでは少しそうじゃない余地もわずかに残されていた場所だと思っていたけれども、そういう場所でも静かにしているのがよいと思いました。

素直に自分の心に向き合ったとき、そこで伝えたいことも、発信したいことも、とりたててないなあ、などと思いながら、うっすら残った迷いで、多少流されて諸行無常に発信してみているのが、いまの状態です。

割を食っていることを、割を食っていると素直に言えない、言ったら炎上する、みたいな社会に、住みづらさを感じながらも、強者から消費させられながら、そこからは逃れられない消費観覧車をぐるぐると回りながら、そのなかでも幸せに生きられる時間や空間、景色を、身近な人たちとともに大切にしたいと思います。


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