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「さよなら」が別れじゃなくて

X月X日

学生時代から仲良くしてくれてるともだちKちゃんが、いよいよ来年、北アルプスのふもとに、だんなさんと1歳になる娘さんと3人で、東京から移住することになった。

Kちゃんは、わたしが10年ちかくいた新聞社を辞めて、東北の山間部に移住を決めたとき、ほかの人たちが「すごい決断だね」とか「がんばって」と言ってくれたなかで、「楽しんで」とだけ言ってくれた。

わたしはそのとき、たくさんのともだちに「遊びにきてね」と伝えて、「遊びにいくね」とたくさんのともだちがそう答えてくれたけど、じっさいに移住して(それから5年くらいでまた東京に帰ってくることになったのだけど)、その間にほんとうに遊びにきてくれたのは、Kちゃん、たったひとりだった。

だから、わたしは、わかっている。

いや、「だから」というわけではないけれど、その経験をしたから、というだけでもないけれど、職場が変わったり立場や地位が変わったり、年齢によって衰えていったり、病を患ったりとかいろいろしていくなかで、

それでも声をかけて、ごはんを食べようとさりげなく誘ったり誘われたり、

それでもその人の住んでいる場所で地震などの災害があって、その人の身を案じたり、

それでも縁をつないでいきたいと思ったり思われることのむずかしさを。

自分が変わっていけば変わっていくほど、かんたんではないことがわかっていくし、相手だって当たり前だけど変わっていくなかで、それでもつながる関係が奇跡に等しいということを。

その”場所”を離れるということは、自分がどれだけ、たとえば仕事だったり、日々のしがらみだったりという「利害」ではない部分で、その”場所”の人たちとつながれていたか、試されることでもある。

その”場所”を去るのは、簡単だ。ばっくれて去ることだってできる。

一方、きちんと「さよなら」をして、見送ってもらって、「遊びにきてね」「遊びにいくよ」と約束しても、それは、ほんとうに遊びにきてくれたり、それからも縁がとぎれたりしないことを約束するものではない。

後者の「さよなら」をしたほうが、わたしはずっと、試されているし、傷つくリスクも含めて勇気のいることだな、と思う。

お互い環境が変わってしまえば、いろんな環境という”利害”が一致していて、たまたまその時期、お互いに必要としていたのだということが、離れてみて、悪気もなくても、気づいてしまうこともある。

そんな残酷なことも、その場を離れると、つきつけられる。

だとしたら、「さよなら」なんて言わずに、夜逃げなり、ある日気づいたらいなくなってたくらいが、お互いにいいんじゃないかと、たくさん変わってきたわたしは、これ以上、傷つきたくなくて、傷つけたくもなくて、思ったりもするのだった。

「さよなら」がないほうが、また会える気が、たくさんの”別れ”を通して、思うようになってきた。そうやって、傷つかないように、自分を守るすべが身についたともいえようか。

移住から5年後、東北のとある地方都市に離婚届を出して、終電のはやぶさに飛び乗って深夜、東京に帰ってきた翌日。

Kちゃんから、学生時代に一緒に演奏活動をしていた仲間のコンサートがあるから来なよと、誘われた。

代々木上原にある会場の楽屋を訪ねると、Kちゃんは、「また帰ってくると思ってた」と言って、メルティキッスのチョコレートをくれた。

「おかえり」なんて言われて、あたたかく迎え入れられるのが、いちばん嫌なことだった。

だけど、そんな心配は杞憂で、わたしから「また帰ってきちゃった」なんて卑屈なセリフを言わせないための、Kちゃんならではの心遣いに、申し訳なくなった。

ほかのメンバーたちも、久しぶりに突然帰ってきてきたのにもかかわらず、なんだかばつが悪く身構えるわたしに、まるで昨日も会ったばかりの人であるかのように自然に接してくれた。でも、その器用さに、わたしが一方的に、勝手に距離を感じて、居心地を悪くしてしまった。

学生時代は、学年が1、2個ちがえど、メンバーのみんなは、わたしと同じ三十歳代の半ばにさしかかっていた。

彼らがクリスマスの時期に、卒業後も、毎年毎年、コンサートを開いていたのは知っていた。

わたしも毎年ずっと誘われていたけれど、当時、新聞社に入社したばかりで、警察担当に休みという概念はなく、そのときは横浜住みで、管外への移動は基本禁止で、「余裕」や「楽しみ」の時間が社会人に存在するなんて、信じられなかった。

次第に彼らはもともと「貴族」で、世界のちがう人たちだったんだと、その隔たりが広がっていく理由を自分で自分を言い聞かせて、正当化しようとしていった。

たぶん、「貴族」な彼らが仮にわたしと同じ環境に置かれても、彼らの持ち前の器用さとスマートさと、凸凹のない頭のよさで、こんなわたしみたいに不器用に、要領悪く、みすぼらしく、じたばたと見苦しく、泥臭く地を這う取材をしたりなどせず、ヘドロを吸う人生に出会うこともなく、汗をかかずに涼しげに、彼らなら生きていけるんだろうな、と。

だから、そんな、社会人になっても、貴族のような音楽を、趣味として、たしなみとして、のんきに奏でていられるんだろうなと、世界線を引くことで、ヘドロにまみれた自分の人生をなんとか納得させようとした。

だが、こんなひょんなタイミングで、ひょんなタイミングだからこそ、三十歳代半ばになった「貴族」な彼らと、わたしは再会することになってしまったのだ。

彼らは、人生すごろくのコマを当たり前に進めるかのように結婚し、子どももできたりしながら、広告、自動車、鉄道、物流…全産業あらゆる業界のトップの地位においてキャリアを順調に築いていたり、国際コンクールで最高位に入賞したのを機に、海外を拠点に活動を始めたり、子育てが落ち着いて、院で研究を始めたり、MBAを取得したりしていた。

そんな彼らと、肩を並べているというか、肩を並べていることも意識せず、引け目にも感じずに、当たり前に、一緒にいられる時期が、わたしにもあった。

だけど、いま、そこにいるのは、これまでの人生やキャリアをすべて捨てて、単身、東北地方の山間部に行って、ただただ帰る場所がない振り出しに戻った、彼らと真逆で対照的な、みすぼらしい自分でしかなかった。

その場で、いくら肌や髪がつやつやで、おしゃれな服を着かざっているとか、間に合わせではない。

高級寿司店のカウンターに出される時価の大トロやウニのごとく、内側からもにじみ出るくらいの、自信に裏付けされた、物心両面の余裕という脂が、のりにのっていることが、いやなくらいに伝わってきた。

コンサート終了後、「来年は一緒に演奏しようよ」「mieが出るなら、この曲もできるよね」「あの曲をやろうよ」などと、それぞれ誘いの言葉をかけてくれた。グループLINEもできた。

すぐには答えを出さずにいたら、改めてお誘いがきて、それで、断った。「わたしたちは、mieがまた演奏したい気持ちになるまで、いつでも待ってるからね」と返事がきた。

わたしがみんなとやってきた「演奏」は揺らがないものだ。その「演奏」でもって、わたしのことを誘ってくれている。

あのときは「演奏」で、つながっていた。彼らは、社会に出てからも「演奏」でつながっている。

だけど、わたしは、あれから、彼らに「演奏」以外のものを、いつしか見るようになった。そうやって見なければ、保って生きていけないような人間になってしまった。

こんな規格外な自分は、彼らの人脈形成にはもう役に立たない存在だろうと、「演奏」だけでは純粋につながれない、邪(よこしま)な人間になってしまった。

そんな邪な気持ちを持って、あのときみたいな、「演奏」だけでつながっていた純粋なつながりに、自分が入ることは、すごく失礼だし、フェアじゃないと思った。

これは、お互いの環境変わったというエピソードのひとつにすぎない(いや、”お互い”ではなく、わたしの身の丈が、生まれながらにちがっていただけなのではないかと書きながら思ったりもした)。

そんなエピソードは自分にもごまんとあって、それはよくあることなんだろうけれど、思い出すたびにヒリヒリしてしまう。

今回、学生時代の音楽活動をしていたときのエピソードを選んだのは、たぶん、きょうがクリスマスイブだから、そのときあたりのことを思い出してしまったのだと思う。

ヒリヒリしてしまう経験があるからこそ、縁のありがたみを、感じることもできるんだと思う。

それに、縁だから、どうすることもできないけれど、そのとき、その瞬間はせめて、嘘じゃなかった、ほんとうだった、って、いま、クリスマスジャズのBGMを流して、この文章をリビングで書いてるけど、アメージンググレイスの演奏を聴きながら、思ったりもする。

Kちゃんも、あれからさらに、変わっていっって、さらにまた、変わっていこうとしている。

変わるKちゃんを止めることはできないし、わたしもわたしで、変わっていくことは、わたしですら止めることができない。

そんなヒリヒリするエピソードとか、決して真っ直ぐではない、いまもまだ全然屈折している自分の心とも折り合いがつかないまま、だけど、Kちゃんに、メッセージをひとことだけ送った。

それは、わたしが移住するときに、ひとこと、かけてくれた言葉。

「楽しんで♡」


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