科挙_模範解答-1

東洋経済史Ⅰまとめ①

テスト期間につき、7月29日まで映画館に行きません。代わりにテストの準備の副産物を置いておきます。

中国史における国家と社会
 B.C.1070~B.C.770の周王朝では、封建制が施行された。王は有力者や功臣に集住地「邑」を与え世襲の諸侯とする。諸侯は家臣に領地を分与して民を支配する。邑を支配する諸侯を王の権威によって統合する間接支配の統治形態だ。春秋時代以降から施行された郡県制は、秦王朝期に全土に広まった。地方の行政単位に「県」を設け、複数の県を「群」が統括する。中央から群を管理する長官を派遣し、長官の地位は数年で交代した。郡県制は、秦以降2千年にわたる中央集権的官僚制の基礎となる。
 中国は、皇帝を頂点とし、官僚機構が全土にわたる中央集権的統一国家である。国家の領域は、皇帝を頂点とする垂直構造のかたちをしている。清代、国家の税収の中心は土地税、塩税、関税だった。中央政府の支出は戸部銀庫が管理した。京餉(地方からの送金)、銭収(銅銭などの鋳造)、捐納(官位・任官資格の販売)、漕糧(穀物などの収入)を収入とし、戸部がすべてを管轄することで、財政の帝国規模での統合と集中を実現した。地方行政については、国家財政から独立した法廷的な地方財政が存在せず、その費用は付加税や手数料など、非法廷的な税外収入によって確保していた。
 国家行政の機関は県までであり、県以下は地方の有力者(=郷紳)などによる在地的支配が行われた。
 科挙制度の定着により、学位取得者が増加していた。生員(州県レベル)、挙人(省レベル)を経て進士取得、官僚となり、本籍回避の原則から出身地以外へ任官する者がいる一方、官界に進めなかった紳士たちは、地方社会に根を下ろし、様々な社会事業を無報酬でリードしていった。水利施設、道路、橋、港の建設や管理、学校や書院の維持、地方志(地方史)の編纂、慈善事業、地域自衛のほか、県の徴税や談合の仲介も彼ら郷紳の役割だった。郷紳は紛争の調停や教師月謝などのサービス、土地所有、商業活動から収入を得た。彼らの力の源泉は科挙を背景とする識学の独占と、政権を地方で支持する立場にあったが、官職、学位は一代限りであり、身分相続の面では不安定だった。
 また男系の同族集団である宗族も支配的な制度だった。本家と多くの分家からなり、その結びつきの原理は血縁関係だった。族譜(男系親族の系図)の編纂や、族産(同族の共有財産)の形成、祠堂(同族の位牌を祭る廟)の設立を行った。
 土地税徴収の事例から、国家と社会のかかわり方を見てみよう。まず、県の徴税担当が現地へ向かう。現地の郷紳と税額や徴税方法について談合し、徴税を実施する。徴税した税を県城に送金・輸送する。集積された税は、中央へ送金される。
 広大な中国を運営するうえで重要なかなめとなるのが官僚制度である。漢代には、現地の豪族の意向を受けた地方官が人材を推薦する貢挙が、魏晋南北朝時代には現地からの評判を聞いて人物を九等に評定して任命する九品管理法が採用されていた。これら官僚の世襲・固定化、能力に関係ない登用は、豪族や貴族の家から官僚を生み出す再生産システムであり、「九品に寒門無く、下品に勢族無し」と言われた。隋代の583年に科挙が出現し、唐代に整備されたが、董事も恩蔭の制とよばれる、高官の子孫に官位を授ける事実上の世襲制が行われていた。宋代に科挙制度は完成し、1905年に廃止される。
 科挙を受けるためには国立学校の生員(生徒)であることが条件である。そのため、まずは3年に2回の割合で行われる国立学校の入学試験「学校試」に合格しなければならない。合格すれば生員となり徭役は免除されるが、3回欠席すると生員資格剥奪となる。3年に1回の「科試」を受けて挙子となり、本籍地で郷試を受けて合格すれば終身資格の挙人を得る。郷試は中央から試験官を派遣し、全国一斉に行われる。専用の建物「貢院」で二泊三日泊まり込みで受験し、試験の答案を写字係が筆写して審査される。挙人は「挙人覆試」に合格すると、郷試の翌年に北京で実施される「会試」を受験できる。会試に合格すると「殿試」を受け、合格者は進士となり、官僚へ登用される。試験内容は経書の暗誦を基礎とし、古典読解、詩文作成、時事論文作成の3つの科目から成る。
 原則として階級区別はなく、建前上は誰でも科挙受験可能だったが、科挙受験までの教育には民間の学校(書院など)、家庭教育、宗族の援助、地域社会の基金、婚姻関係など地縁・血縁的つながりが必要だったため、事実上の選別が認められる。書院・学校での師弟関係、同期関係、試験官との師弟関係は地域社会、政界での活動基盤となったため、科挙は単なる官位登用システムではなく、政治・社会・文化構造を作り出す「システム」としての役割を果たしていた。殿試の合格者のなかでも成績上位三者を進士といい、彼らは三年1サイクルで民政、礼制、法律、財政、軍事など各部署を渡り歩いた。キャリアの彼らには儒教的教養と高所に立った政治判断が期待された。一方実務知識の習得は難しく、専門官僚は不足していた。法定外職員の胥吏が出現し、彼らは税役、刑法上の特権も、公的な給与も無かったが、手数料や賄賂などで生計を立てていた。科挙官僚は儒教的知識人としての政治を任され、その地位は学位と地位によって決定され一定の流動性はあった。また一握りの合格者に庶民とかけ離れた富と権力を与え、皇帝の忠実な従僕として君主独裁制を実現する道具のようにも機能していた。しかし官位や学位の売買が増え、財貨が身分を決定する重要な要素になった。1905年科挙は廃止され、以降海外学位が注目されるようになる。

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そよ風ヨーグルト

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