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話すこと

大人になって少しはまともになったのは、人と話すことかもしれない。

学生時代までは、不特定多数の人と話すのが苦手だった。趣味や価値観が合う、ごく少数の人とだけいつも話していた。世間話ができず、自分の話したいことだけ話す陰キャムーブをかましていた。

それがなにを思ったのか、営業職になってしまった。
いま思えば、自分の苦手を克服したかったのかもしれない。
上司から「お前と話していても面白くねぇんだよ!」と怒鳴られたこともある。
今なら「単に話が合わないだけなんだな」と流せるが、当時は相当へこみ、上司を恨んだ。

話すのが下手くそでも、それをあたたかく見守ってくれる人もいる。特に年配のお客さんは経験の少ない若造の話に辛抱強く付き合ってくれた。そういう人たちに恵まれて、話すときの緊張は少しずつ和らいでいった。
下手な鉄砲も数打てば当たるで、色々な人と話していると、会話のパターンがつかめたり、結局のところ相手との相性次第だと思えたりと諦めがつくようになってくる。
一時は自分が鈍感になったのかな、とも思ったが、ようは慣れの問題なのだ。

話し方がぎこちなくなるのは、相手にどう思われるかを意識しすぎているから。それがなければ、自然に話すことができる。自然に話すとは着飾らないことだ。その場その時の自分で相手と向き合う。
それでもいまだに、初めての人やとっつきにくい人にはぎこちなくなる自分もいる。

コロナ禍になった当初は、職場以外の人と話す機会が極端に減った。話すことを意識しなくてよくなりすこぶる快適だったが、それが1、2年続くと話し方を忘れた。
久しぶりに会う友人とすら、なにをどう話していいか分からないのだ。
それでも「話し方、忘れちゃったんだよねー」と笑い飛ばせば、「なにそれ」と話が広がっていく。心配しなくても、会話は続いていくのだなと思った。

つくづく、自分にとって話すことはスキルだなと思う。
自転車のように、いったん乗れれば二度と忘れないという類のものではない。
日々人と話すことでなんとか錆びつかないようにしていられるものだ。

たまに、誰とも話さずにただ自然の中でひとり暮らしていきたいと思うことがある。人と関わること、話すことを放棄したらどうなるだろうかという好奇心もある。だけどそれはなかなか難しい。
上手く話そうなんて考えずに、その場その場で臨機応変に対応すればいいや、くらいに思っておけば、話すこともそんなに悪くはない。

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