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泣いている子には、言葉はいらない。

幼稚園へお迎えにいくと、むすめが泣いていた。

砂遊びをしていて、砂が目にはいってしまったとのこと。
けっこう奥の方まではいってしまったらしく、先生たちも一生懸命対処してくれた。

泣きじゃくる娘を抱きかかえながら、車までつれていく。

「じゃ、帰ろうか」

声をかけても、あばれるばかり。
シートのベルトもとめられない。

様子をよく観察する。
目が痛いとか、変な感じがするとかの違和感はなさそうだ。
目の中の砂を洗い流したあと、泣きながら眠ってしまっていたのが、ちょうど迎えに行くタイミングで起きて泣きはじめた。

だとすれば、きっと寝起きで機嫌がわるいのと、はじめて目を水で洗ったりしたのが怖かったから泣いているんだろう。

「抱っこしててあげようか?」

そう声をかけると、娘は泣きながらうなずいた。
まだ4歳。ふだんは泣きわめいたりすることは、ほとんどないけど、何かの拍子に感情のタガがはずれてしまうこともある。

娘を抱きかかえると、背中をさすりながら車の前であやす。
お迎えにきた他のこどものお母さんが「あらあら、たいへんですね」というそぶりでにこやかに笑顔をくれる。
ここは、山の中の幼稚園の駐車場だ。どれだけ泣き叫んでも、誰の迷惑にもならない。落ち着くまで、好きなだけ泣けばいいよ、と思う。

うでの中であばれて、叫ぶ娘。その勢いはなかなか収まらず、30分近くも泣き続けた。なんと、途中でトイレ休憩まではさんだのだ。(トイレに行きたいと、トイレに行って、その後でまた泣き出すという)

「おうち、帰りたい」

ようやく落ち着いた娘はぽそりと呟いた。

家に帰って、ごはんを食べて、お風呂に入っているとき。彼女はふと話し始めた。

「あんな、今日わたし、お水をこうやって目に入れて(目薬をさすようなそぶり)砂をあらったんやで」
「そっかー。砂、いたかった?」
「んー。痛かったし、お目々洗うときこわかった」
「パパもむかし、目薬きらいだったなー。でも、なれると気持ちいいんだよ」
「ふーん。でも、わたしはこわいー」

ぼくは、娘が自分から話し始めるまで「目がいたいの?」「砂だいじょうぶなの?」「どうして、砂が目にはいっちゃったの?」などの質問をしなかった。

ぼくは、先生のことも、娘のこともちゃんと信じようと思ったのだ。
先生は事情を説明してくれたし、目も洗ったからだいじょうぶです、と言ってくれた。
だから、それいじょう泣きじゃくる娘を問いただすことは、しないようにしようと思った。
問いただしたくなるのは、きっと自分自身が安心したいからなのだ。
ぼくが安心することなんかよりも、娘が落ち着いて自分から話してくれるのを待とうと思った。だから、ぼくの安心は先生の言葉で担保することにした。

もちろん、娘が目を痛がったり、違和感を訴えていたら話は別。
だけどそういった素振りは見られなかった。だから、ぼくは自分自身のことも信じることにした。


いつの間にか、娘の中で目を洗ったエピソードは武勇伝へと昇格された。
「ちょっと泣いちゃったけど、乗り越えたわたし」(ちょっと、じゃないけどな)は、自分の中でなにか自信になっているようだ。

泣いてる子には、言葉はいらない。

それが、やさしい言葉でも、心配する言葉でも。
言葉は時にひとを追い詰める。それは言葉の中身や聞き方の問題じゃなくて、言葉そのものが刃物のようになるのではないだろうか。

言葉であんいになぐさめるよりも、そばに寄り添っているだけでいいのかもしれない。言葉は、いつか泣いている本人が発してくれるから。


今日も、見に来てくれてありがとうございます。
子育てって、忍耐力だよなーって思います。
ぜひ、また見に来て下さい。

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