東浩紀『動物化するポストモダン』(2001)を読む。

『動物化するポストモダン』は現代思想関連の本の中でも特に一般の人に広く読まれている本であるが、しばしば難解とされ、人によって解釈が分かれている本でもある。
私は現代思想について素人ながらも僅かに関心があり、以前からこの本にも興味があった。
難解で解釈が分かれるというこの本の内容の要約を試みたうえで、個人的な批判も載せたいと思う。

<要約>
政治的なイデオロギーといった「大きな物語」が成員をひとつにまとめていた時代が近代であり、「大きな物語」が機能しなくなった時代がポストモダンである。
近代は、我々が知覚する表層的な世界(「小さな物語」)に対し、「大きな物語」が深層にあるとするツリー・モデルで捉えられる一方で、ポストモダンは、「小さな物語」の深層に「大きな物語」ではなく、物語なしの情報の集合体(=「大きな非物語」)があるとするデータベース・モデルとして捉えられる。
近代からポストモダンへの移行期である“部分的なポストモダン”においては、コンテンツの背景にある虚構(「設定」や「世界観」)を、凋落する「大きな物語」を代替する物語として捉えようとした。(=物語消費)
しかし、深層が「大きな物語」からデータベースに置き換えられ、かつもはや「大きな物語」の補填すら必要性を感じられなくなった“全面的なポストモダン”においては、「キャラクター」をはじめとするコンテンツは「萌え要素」といったデータベースの要素の組み合わせであり、また逆に消費者によってコンテンツは要素に分解されデータベースに登録される。(=データベース消費)
また、このようなデータベースの要素の組み合わせであるコンテンツは、作家性の概念がなくオリジナルともコピーともつかないシミュラークルとなる。(=シミュラークルの全面化)
シミュラークルの全面化と大きな物語の凋落の二点において、オタク系文化はポストモダンの社会構造を反映している。
大きな物語が凋落した上、それを埋め合わせるために虚構(無意味である)と知りながら意味(形式的な価値)を見出そうとするスノビズムな態度も有効性を失った。
大きな物語を失ったポストモダンの人々は、もはや他者を不要とし、自身の欲求を効率よく満たすようなデータベースの要素を組み合わせた「小さな物語」を求める。(=動物化)


なるべく筆者の主張を損ねず、キーワードを押さえながら第三者が理解しやすい形でまとめたつもりである。これでもなんだか良く分からない気がするので、もっと乱暴に内容を掴んだ身も蓋もない意訳も載せてみたいと思う。
<身も蓋もない意訳>
90年代以降のオタクが好むアニメやゲームは、単に「萌え要素」の組み合わせで作られたオリジナリティのないキャラクターが出てくるだけで、作品に込められたメッセージもない。
そしてオタクも作品のメッセージには興味がなく、「キャラクター」を切り離して消費している。
(極端な例がエロ同人誌で、キャラクターのデザインだけを消費している。)
また、一見シナリオが重視されているように思える「泣きゲー」と呼ばれる作品も、「キャラクター」と同様に、多くの人の嗜好に合うような“感動的(泣ける)”な要素の組み合わせで作られたものにすぎず、深いメッセージがあるわけではない。
このようなアニメやゲームから自分の嗜好に合う部分だけを“読み込んで”個人の欲求を満たすためだけに消費するオタクの態度は実はポストモダンの構造を反映している。
このように感情的な満足を機械的に満たそうとする姿勢は、コジェーヴが指摘したポストモダンの人々の動物化と対応しているからである。


東の述べている主張を上記のように解釈したうえで、私なりの批判も掲載しておく。
上記の解釈が前提になっているので、解釈が誤っていたら批判は的外れになってしまうけれど。
<『動物化するポストモダン』批判>
「エヴァンゲリオンのデータベース」や「ガンダムのデータベース」(以下、「作品レベルのデータベース」という)があり、それらのデータベースを反映することで「エヴァンゲリオンのコンテンツ」や「ガンダムのコンテンツ」が存在しうる。
また、「作品レベルのデータベース」の背後にはより広大な「オタク系文化のデータベース」が存在している。
上記のような理解が素直なデータベース・モデルの理解だと思われる。
私がこのデータベース・モデルについて指摘したい論点は、何故「オタク系文化のデータベース」に直接アクセスするのではなく、間に「作品レベルのデータベース」を仲介させているのか、その必然性が何も説明されていないという点である。
言い換えると、東が言うようにデータベース・モデルは単純な二層構造ではなく多層構造を形成しているが、であれば層ごとに他の層とは違う性質があるのではないかという指摘である。
もしオタクが単に「萌え要素」のみを消費しているのであれば、もはや「作品レベルのデータベース」による仲介は不要になっていくのではないだろうか。
東は良いシミュラークルと悪いシミュラークルを選別する装置であることもデータベースの機能として挙げているが、ここで指しているデータベースとは「オタク系文化のデータベース」ではなく「作品レベルのデータベース」であろう。
なぜなら「オタク系文化のデータベース」は包括的な情報の集合体であり、価値中立的であるため、シミュラークルの良し悪しを選別する機能は持ちえないと考えられるからである。
となると、「作品レベルのデータベース」は「オタク系文化のデータベース」のような単に情報の集合体とは性質を異にしていることになる。
ではこの性質の違いを生み出している要因は何かと考えると、作品に宿る「作家性」や「オリジナリティ」に帰着するのではないだろうか。
もしかすると東はシミュラークルの全面化によりオリジナルとコピーの区別がなくなったという立場に立ったためにデータベースの層の間に生じる差異を説明できなくなったのではないだろうか。
しかし、東がいうようなシミュラークルの全面化は起きていなく、いまなお「二次創作」や「関連企画」においてオリジナルとコピーの区別も存在していると捉える方が現実に即していると考える。

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