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Youtubeが作る僕の趣味感は"正しい"か

AIに趣味が作られる時代

僕は音楽が大好きだ。中でも邦楽ロックが好きで、よくライブハウスに足を運んでいる。駆け出しでまだそこまでお客さんが多くないような、でも素晴らしい音楽を奏でているアーティストを見つけると、心の底から嬉しくなってくる。

ここ数年で、僕のアーティスト探しのメインツールはYoutubeになっている。ミュージックビデオを作成するアーティストが増えたというのもあるが、それよりも何より、Youtubeのレコメンド機能が僕の趣味をめちゃくちゃわかっている挙動を示すからだ。実際、Youtubeで知ってから好きになったアーティストの数は数十にのぼる。Spotifyなんかもレコメンド機能は強いのだが、やっぱり音楽とビデオを同時に楽しめるYoutubeの方が、新規開拓には向いていると思っている。

ところで、Youtube経由で見つけたアーティストを好きになることが多くなるにつれ、あることを考えるようになった。きっと誰もが一度は考えただろう。
「自分の趣味は、自分の感覚が形成したものなのだろうか?
 それとも、YoutubeのAIによって形成された、似たような趣味嗜好の傾向の最適解なんだろうか?」

Youtubeのレコメンドは、実際にユーザが残した視聴履歴から、機械学習によって関連付けられたつながりを元に提示されている。僕以外の邦ロック好きが辿ったアーティスト遍歴の中から、もっとも多いルート(≒好みに感じる人が最も多いルート)を見出し、それを僕にオススメしている。そうして僕も同じようなアーティストを好きになり、また誰かのレコメンドに繋がる視聴履歴を残していく。

こうして、YoutubeのAIが紡いでいくサイクルに僕は飲み込まれていく。
そんな時、僕は考えてしまう。
今の僕の好きな音楽は、はたして自分で好きになったものなのだろうか。
自分とよく似た誰かの趣味嗜好をコピーしているだけなのではないか。
もっと言うと、そのフィードバックループの中で、
僕、ないし僕と似たような趣味を持つ人はすべて、
YoutubeのAIによって趣味や嗜好の感覚を形成されているのではないか?と。
自分の趣味は自分の感覚に従って形成しているつもりで、実はアルゴリズムによって算出されたただの傾向値なのではないか?と。

そう考えた時に、僕は「これでいいのか?」と感じてしまった。
好きか嫌いかしか存在しないはずの趣味の世界で、良いか悪いかを考えてしまう。
そのことを自覚した瞬間、背筋が凍りつくような感覚を覚えた。

全部受け入れて、それでもなお「僕」を叫ぶ

そんな時代に、僕らはどう生きるべきか。
色々考えたのだけども、結論はいまでも見えていない。

ただ、一つ感じることがある。
これから先、情報の収集や取捨選択には必ずAIが絡んでくる時代になる。
それは別にYoutubeのレコメンドに限った話ではなく、
検索エンジンもそうだし、人や企業の評判を知るのもそうだし、
自分の人生を共に生きる大切な人との出会いさえも、おそらくはアルゴリズムありきの世界になっていく。というか、既になってきているけれど。

そんな時代において、「僕」が占める領域はあいまいになっていく。
身体的領域はまだはっきりした部分がある(それもARやVRによって変化していくだろうけど)。けれども、嗜好性や人格といった精神的な領域は、もうどこからが自分の内部に起因するもので、どこからが他者の影響によるものなのか、今まで以上に境目が溶けて無くなっていく。
別に今までの人類も、他人との交流や書籍など情報との接触によって形成される人格はあった。ただこれからは、そこにアルゴリズムが入ってくる。それは確かに他人の影響ではあるのだけども、より不感知で、よりダイナミズムをもって僕たちに影響してくる。それを丸ごと否定することは、多分難しいのだろう。

そんな時代の中で、
少なくとも僕個人としては、
もう「境目」にこだわるのを、やめようかと思っている。

別にアルゴリズムに提示された音楽を好きになっても構わない。
なんなら、アルゴリズムによって作成された音楽でも構わない。
ただ確かにそこに「好きだ」と思える自分の感覚があるのならば、
それはどうであれ、「僕の趣味だ」と言い切ろうと思う。

趣味に限った話ではないけれども、
「僕」の内外の境目が溶けてくこんな時代だからこそ、
僕は僕自身を定義して、「僕」を叫び続けていきたい。

そんなことを考えて、生きています。

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