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自分のことば、相手に届いていますか? 【竹内敏晴著 教師のためのからだとことば考】

職業病だからなのか、誰かと話をしたり、関わりを持つときには、自分のことばが相手に届いているか、ということに神経を配ってしまいます。

自分が発した声が物理的には相手に届いているとしても、相手に自分の「ことば」が届いているかは相手の反応を見たりしながらチューニングを合わせて調整していき、なかなかこれがまた難しく、試行錯誤をし続けていくしかありません。

竹内敏晴さんの「話しかけ」のレッスン

私の大ヒーローである、竹内敏晴さんの本を開くたびに、声の出し方というテクニカルなところではなく「関わりあい」「出会い」を常に意識していく必要があることに気付かされます。

竹内先生の「教師のためのからだとことば考」では、特に「教師」と呼ばれる人はからだがカチコチに固まってしまっていて、「声が出ていない」と警告しています。

ある女性の先生の例

人が人へ話しかけること、という章では、下記のように若い女の先生の例が取り上げられていました。

しばらく前になりますが、ある会合で若い女の教員から質問されたことがあります。自分は小学校三(?)年の担任だが、子どもたちの姿勢がひどく悪くて困っている、どうしたらいいだろう、というのです。どんなふうに悪いのか尋ねてみるとーぐたっと手を投げ出して上体を机にもたせ掛け、顎を手の甲にのっけたまま、ぼんやりあらぬほうを見ている、ということです。
(本文より引用)

ここまでを見ると、指導力がないのかな、とか、クラスの運営(専門用語だと、学級経営というようです)が上手く行っていないのかな?などと想像を巡らせてしまいます。

しかし、竹内先生は下記のことに気づきました。

ところで、この教員の声が実にか細い。おまけに甲高くて、わたしはこれだけの問答をするのに何度も聞き返さねばなりませんでした。これはもう原因は本人以外には明明白白です。この若い教員の真剣さに向かってこういうのは気の毒だけれど、子どもたちをそのような姿勢に追い込んでいるのは、かの女自身にほかならない。
(本文より引用)

なるほど、自分の声が影響してしまうわけです。竹内先生の見立ては、

あんなか細い、聞き取りにくい声で先生にしゃべられていては、どんなに熱心に耳をそばだてている子どもだって、じきにくたびれ果て、もうどうでもいいやという気になって、ぐたっと机につっぷしてしまうのが当たり前です。
(本文より引用)

ということでした。自分もそうかもしれない、そうなっていないか、ということをこの文章を読むといつも思い出します。

今の若い人達は息が浅く声が響かないという話をよく耳にします。

竹内さんの「話しかけ」のレッスンを真似して、今日、大人たちで体験してみましたが、ひとつわかったことは「声が大きければ届く」ということではないということ。相手にことばを届けるためにどうすればよいか、いつも考えています。


最後に、「教師のためのからだとことば考」の表紙に書かれている文をご紹介します。

教えると学ぶも、同様に、交わり合う一つの行為
「共に気づいてゆく喜び」であるだろう。
それぞれの子の独自の思考の道筋があって、
それに乗らねば一切の鍵は開かない。
少しずつそれに手がかりができ、
やがて、ある瞬間にぱあっとイメージがつかめる。
それに立ち会うのが「出会い」であり、
「共に生きる喜び」であって
この時教えると学ぶとは二つのことではない。

(表紙より引用)

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