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遊びと行為の喜び 『フリープレイ 人生と芸術におけるインプロヴィゼーション』

前回の記事でご紹介した笛吹の寓話。

そこでは、若き笛吹の弟子は「承認されるため」「師匠からの期待に答えるため」「恥をかかない」ために演奏をしたときに、

「なにかが足りない」状態に陥りました。

しかし、得るものも失うものも、何もなくなった瞬間に本当の意味での演奏、すなわち「プレイ」が起こったのです。

遊び〈プレイ〉こそが創造的活動の源泉

『フリープレイ 人生と芸術におけるインプロヴィゼーション』の著者、ナマハノヴィッチは、その中で創造の源泉は、遊び〈プレイ〉のこころだと述べています。

インプロヴィゼーション、作曲、執筆、絵画、演劇、発明、すべての創造的活動は、遊び(プレイ)の様々な形式であり、人間成長のサイクルにおける出発の場であり、重要な根源的生命機能の一つです。
遊びなしでは、学習や進化は不可能です。

そして、その後やはり「遊び」のこととなると出てくるこの名前、ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』が引用されます。

遊びは、私達の生活のすべての面に広がり、高度に進化した領域まですべてに広がっています。例えば儀式、芸術、政治、スポーツ、文明などです。ホイジンガは書きます。「その遊びが何であれ、そこに人間精神があることがわかる」。

目的よりも手段を面白がるむだ遊び

その中で目的よりも手段を面白がる「むだ遊び」の重要性について説いています。

たとえば写真撮影で3つの光のレベルを捉えたければ、三種類の露出やシャッタ速度を持つカメラが必要です。もし音楽で三種類の情動を表現したかったら、少なくとも三種類の質で、理想的にはもっと多くのタッチで、弓を弾いたり、息を吐いたり、鍵盤を叩くことが必要です。

むだ遊びは、その表現の可能性と幅を広げる役割を果たしてくれるのです。

自由なインプロヴィゼーションとしての遊びは変化する世界に対応する能力を鋭敏にしてくれます。

Funktionslustと内発的動機づけ

著者はドイツ語の言葉funktionslustを例にあげ、その「むだ遊び」いや「自由なインプロヴィゼーションの遊び」について解説しています。

ドイツ語の言葉に、funktionslustというものがあります。

行為の喜び、影響を生み出すことという意味で、結果を得たり何かを保持することとは異なる意味です。

創造性は、発見したり、発見されたりすることよりも、それを探し求めることにあるのです。

私達はエネルギッシュな反復や練習や儀式などに喜びを感じます。
遊びのように、活動もそれ自身が目的です。

注目すべきはプロセスにあり、結果ではありません。遊びは人間の生得的な満足感です。それは何者にも左右されません。

遊び、創造性、芸術、自発性、こういった経験全てはそれ自身が報酬です。ですから見返りや罰のためにおこなうと、うまくいきません。

その意味で「人はパンのみに生きるにあらず」なのです。

外発的動機づけに縛られていた笛吹の若者は、統制され疎外されていた状況から開放されると、あっというまに内発的動機づけを発揮し「プロセス」を面白がることになりました。それこそがまるで神のようだったのだ。


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