旅マガジン TOMOIKI(ともいき)

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「旅マガジン TOMOIKI(ともいき)」は、 日本各地の郷土、資料、観光資源の共有から歴史を探り、 個々人の現在を豊かにする為の娯楽メディアです。地方自治体の情報、観光地情報なども掲載予定です。

マガジン

  • 特集 - 東海道五十三次

    東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんんつぎ)は、江戸時代に整備された街道の名称ですね。東海道にある53の宿場のことを指します。宿場(しゅくば)とは、宿、宿駅(しゅくえき)とも呼ばれ、街道の拠点であり、江戸時代のホテル街のことです。今も昔も(ホテルというか)宿があるところには、人の行き交いがあるので、飲み屋や茶屋なども揃っていたそう。要は宿場を中心とした町の総称を言うそうです。京都までの道程を攻略するためにも、東海道五十三次の中にある宿場町は当然賑わいが際立っていました。旅人や問屋さんの中継地点だけでなく、宿場間の荷物配送の中継地点にもなっていたそうですね。昔も今もそう変わってません。

  • 特集 - 四国お遍路

    四国八十八箇所、お遍路の目的は人それぞれで、健康祈願や海運・縁結びを目的とする人が大半なのかなと思います。お遍路の要所として登録されているのは徳島県内だと23ヶ所あります。徳島県は阿波国という云われ方もするので、阿波国の霊場23ヶ所ともいわれます。徳島県には最初の霊場としての役割があり、発信の道場と云われており、ここで準備を整え長い旅路をする場所であることは言うまでもない。ただ、番号順に巡らなければいけないルールはないので、思いのまま巡ることが望ましいでしょう。1人で巡礼する場合でも、「同行二人」として、弘法大師様と一緒に巡礼する、それがお遍路だといいます。皆様も自分を見つけ直しに行くのはいかがでしょうか。

最近の記事

極楽寺の見どころ

山に囲まれている地域性も合ってか、非常に閑静な境内であります。 閑静な中に「長命杉」という巨木があり、これは弘法大師自ら手植えをされて現存していると伝わっている。パワーも備わっていることでしょう。鳴門市の天然記念物となっている。 また、こちらのお寺ですが、長寿だけでなく安産祈願にも効果があると云われている。現世への生まれる命を見届け、現世の役目を終え来世を向かうための道のりを示してくれる場所なのかもしれませんね。 旅マガジン TOMOIKI http://tomoiki

    • 四国八十八箇所における極楽寺とは

      正式名は、日照山(にっしょうざん)無量寿院(むりょうじゅいん)極楽寺(ごくらくじ)。 ご本尊は極楽寺本堂の阿弥陀如来(国指定重要文化財)であるが、本堂はかつて消失・破壊されたとされている。その後再建されている。弘法大師が修法している際に、阿弥陀如来からおことばを賜ったと云われている。 日照山という名称は、かつて阿弥陀如来の美しく発する光によって近くの漁民たちの漁に不便が生じたようで、それを解決するために小山を立てて光を遮ったことが由来とされている。ありがたいことやら迷惑な

      • 松山城の見どころ

        城山(勝山)山頂は標高約132mで、天守は更に約30m高くそびえたっているため、江戸時代から今日に至るまで、松山城大天守は、圧倒的な存在感を持ったランドマークタワーです。 松山平野を360度見渡せるその眺めは正に絶景で、眼下に広がる櫓群など近代城郭の完成度の高さも垣間見ることができます。 天気にさえ恵まれれば、西日本最高峰の石鎚山(1,982m)や瀬戸内海に浮かぶ島々、また日本一細長い半島である佐田岬なども見ることができ、江戸時代に建てられた天守から、藩主になった気分

        • 松山城とは

          別名を金亀城きんきじょう、勝山城とも呼ばれています。 松山城は、日本で12か所しか残っていない「現存12天守」のうちのひとつ、江戸時代以前に建造された天守を有する城郭の一つです。平成18年に「日本100名城」、平成19年には道後温泉とともに「美しい日本の歴史的風土100選」に選定されました。 現在は、城跡の主要部分が公園として整備され、大天守(現存12天守の1つ)を含む21棟の現存建造物が国の重要文化財に、城郭遺構が国の史跡に指定されている。 2007年(平成19年)に

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        • 特集 - 東海道五十三次
          9本
        • 徳島県
          2本
        • 愛媛県
          3本
        • 観光地情報
          3本
        • 特集 - 四国お遍路
          4本

        記事

          道後温泉とは

          日本三古湯の一といわれる。その存在は古代から知られる。古名を「にきたつ」(煮える湯の津の意)といい、万葉集巻一に見える。なおかつてはこの周辺が温泉郡(湯郡)と呼ばれていたが、これはこの温泉にちなむ地名である。伊予国(いよのくに)という名前も湯国(ゆのくに)が転じたものという説がある。 正岡子規と交友のあった夏目漱石は、松山を舞台とした小説『坊つちやん』の中で道後温泉を取り上げており、道後温泉本館は「坊っちゃん湯」とも呼ばれる。 文豪・夏目漱石が松山中学の英語教師として赴任し

          四国八十八箇所における霊山寺とは

          正式名は、日照山(にっしょうざん)無量寿院(むりょうじゅいん)極楽寺(ごくらくじ)。ご本尊は極楽寺本堂の阿弥陀如来(国指定重要文化財)であるが、本堂はかつて消失・破壊されたとされている。 その後再建されている。弘法大師が修法している際に、阿弥陀如来からおことばを賜ったと云われている。日照山という名称は、かつて阿弥陀如来の美しく発する光によって近くの漁民たちの漁に不便が生じたようで、それを解決するために小山を立てて光を遮ったことが由来とされている。ありがたいことやら迷惑なこと

          四国八十八箇所における霊山寺とは

          これからの川崎について

          川崎は、京浜工業地帯に入っており、非常に多くのメーカー企業の工場が乱立しています。写真は川崎市内ですし、味の素や花王などの大企業の工場も多くあります。 夜になると非常に幻想的で、日本経済を支えている要因の一つなのですね。海浜エリアであり、今後も企業の多くが存在し、それらを支えるように中小企業も残っていくことでしょう。 そして、内陸はベットタウンとして静かな街を残し続けていくと思われます。アゼリア、ラゾーナ川崎など商業施設も目立ってきており、便利で賑やかな地域の一つであるこ

          これからの川崎について

          川崎の今昔

          川崎市は多摩川のめぐみもあり、都会の喧騒を忘れて穏やかに過ごせる場所である。東京のベットタウンということもあり、賑わいを見せる場所も多い。歴史ある街で武家も多くおり、古くからの閑静な住宅地が多かった。 現在は神奈川県の政令指定都市の一つでもある。また、川崎大師は関東三山の一つに数えられ、災厄をことごとく消除する厄除大師として大変有名です。正月の参詣客はおよそ300 万人にも達し、大きな賑わいも見せる。 画像は川崎大師の正門です。 旅マガジン TOMOIKI http:/

          お遍路・霊山寺の見どころ

          山に囲まれている地域性も合ってか、非常に閑静な境内であります。閑静な中に「長命杉」という巨木があり、これは弘法大師自ら手植えをされて現存していると伝わっている。パワーも備わっていることでしょう。 鳴門市の天然記念物となっている。また、こちらのお寺ですが、長寿だけでなく安産祈願にも効果があると云われている。現世への生まれる命を見届け、現世の役目を終え来世を向かうための道のりを示してくれる場所なのかもしれませんね。 旅マガジン TOMOIKI http://tomoiki.s

          お遍路・霊山寺の見どころ

          東海道五十三次における川崎宿の役割

          川崎宿は、東海道五十三次の2番目の宿場。東海道の街道が発足してすぐには正式な宿場ではありませんでした。前の宿場の品川から次の神奈川宿までの距離が長く、伝馬(でんま/でんば)の負担軽減の為に少し立ってから正式採用された。宿場町は維持費が高くなり、住民への負担も大きく、長く資金に苦労していたと伝わっている。徳川吉宗は将軍になる前の江戸への道中で、川崎稲荷社の境内で休憩されたと云われている。 旅マガジン TOMOIKI http://tomoiki.synonym.tokyo/a

          東海道五十三次における川崎宿の役割

          これからの品川について

          今後もビジネスの中心地になり続けることでしょう。東京の交通の中心地であり、京急線による神奈川県の移動手段という立ち位置はこれからも同様の歴史を刻んでいくことと思います。 京急線付近や路地裏を行くと昔ながらの家が軒を連ねている様子も垣間見ることができるので、こちらも残していくことが「品川」という町の醍醐味なのかもしれません。御殿山の桜、商店街、ビジネス街による多くの人の交通。これらは昔から変わらない日常なんですね。 旅マガジン TOMOIKI http://tomoiki.

          これからの品川について

          品川の今昔

          品川駅(正確には品川区ではなく港区ですが…)は通勤・通学のラッシュアワーが物凄いことで有名です。都内、神奈川に行く為の洋書であることは、宿場だったころの品川もそうだったようですね。 東海道だけでなく、五街道中で最大の交通量を誇っていたんです。ビジネス街という印象が強いですが、これは昔からの人の行き交いで生まれた歴史なのだと思わせる場所でもありますね。 旅マガジン TOMOIKI http://tomoiki.synonym.tokyo/area/tokyo/441

          東海道五十三次における品川宿の役割

          宿場としては最初の品川宿(あくまで日本橋は出発地点という認識)。 当然、行き交う人も様々だったようですが、御殿山の桜や潮干狩りなども出来た為、江戸に住む人の行楽地でもあった様子。御殿という町自体はないのですが、室町時代の港町で繁栄しつつ寺なども多く建てられたようです。 徳川家光時代には沢庵和尚の為の寺の創建、徳川吉宗時代の桜の植林によって、将軍に関わりの多い地域となった。それと同時に江戸庶民の憩いの場書ともなり、それが現在に受け継がれています。 旅マガジン TOMOIK

          東海道五十三次における品川宿の役割

          これからの日本橋について

          日本橋は情緒あふれる街であり、老舗や料亭、割烹などが揃うイメージがありますが、兜町や茅場町を有する、金融経済で発展した街の側面も持っています。道行く先に各都道府県の銀行の支店が出揃い、素人では聞いたことない証券会社、信用金庫が軒を連ねています。 日本に初めてできた銀行が兜町できたことや、日本の資本主義の父と言われている渋沢栄一私邸も兜町にあったようです。今はビルが立ち並び忙しないですが、路地裏やふとした瞬間に懐かしさ漂う日本橋を感じることができます。個人的に…食の面ですと、

          これからの日本橋について

          日本橋の今昔

          日本橋は情緒あふれる街であり、老舗や料亭、割烹などが揃うイメージがありますが、兜町や茅場町を有する、金融経済で発展した街の側面も持っています。道行く先に各都道府県の銀行の支店が出揃い、素人では聞いたことない証券会社、信用金庫が軒を連ねています。 日本に初めてできた銀行が兜町できたことや、日本の資本主義の父と言われている渋沢栄一私邸も兜町にあったようです。今はビルが立ち並び忙しないですが、路地裏やふとした瞬間に懐かしさ漂う日本橋を感じることができます。個人的に…食の面ですと、

          東海道五十三次における日本橋の役割

          江戸から京都へ向かう東海道の起点である日本橋。当時の参勤交代時における大名行列が朝早くから江戸を出発する様子が描かれていたりもします。 背景を知って上で見ると面白いですよ。 一方で、魚河岸から仕入れを終え、行商に出かける様子も描かれており、江戸で一番賑わっている早朝の日本橋の活気が伝わってきます。 主役は、旅人であり、武士であり、商人だったんだと思います。 日本橋を訪れた人全て。ここから各自の役割を携え、様々な思いを持って旅立っていたことでしょう。 旅マガジン TOM

          東海道五十三次における日本橋の役割