肉食は自然界への「忘恩」である――空海聖人『十住心論』を読む(1)

 弘法大師空海聖人は真言宗の開祖ですが、彼こそは「天皇国・日本」の実相顕現の真理を、非常に深い所で体得された偉人であります。

 戦後の一時期、空海聖人が「鎮護国家」を祈ったことをもって

「空海は民衆ではなく、権力の側を見ていた僧侶である。」

等という風に論評する者もいるのですが、空海聖人やその弟子の高野聖の伝承を見る限り、彼らは民衆のための土木工事等を行い、決して権力者の言いなりになるような者でなかったことは明白です。

 左翼の学者は「天皇信仰=権力追随」という風に誤解しているのですが、それが誤りであることは言うまでもありません。空海聖人のいう「鎮護国家」というのは、決して権力に媚びたり妥協したりするような、そういうショボいものではないのであります。

 それでは、空海聖人は一体どういう思想をお持ちであったのか、については空海聖人の書物を読むことが一番のヒントになるでしょう。

 空海聖人の代表作に『秘密曼荼羅十住心論』というものがあります。これは空海聖人が淳和天皇の勅命を受けて上奏した本です。

 つまり、天皇陛下相手に提出した書物でありますから、これには空海聖人の思想がどういうものであったのか、を考えるヒントが存分に盛り込まれていると言えるのです。

「悟り」とは一体何であるのか

 空海聖人は『十住心論』でこの世界を十段階に分類しました。

 地獄、餓鬼、傍生、人宮、天宮、声聞宮、縁覚宮、菩薩宮、一道無為宮、秘密曼荼羅金剛界宮、の十個です。

 この中で

地獄・餓鬼・傍生=苦しみだけの世界である

人宮・天宮=苦しみが多いが楽しみもある

とし、この5つの世界を「燃えている住宅」に例えています。そして、

声聞宮・縁覚宮=燃えている住宅に比べると小さいとはいえ城であるが、本物の城ではない

菩薩宮・一道無為宮=本物の城ではあるが地下の財宝に気付かず、一時的に休んでいる状態である

秘密曼荼羅金剛界宮=お城の地下にある財宝の存在に気付いた状態である

という風に例えています。

 これは「地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・如来」に分ける天台宗の十界論と似たものでありますが、空海聖人は十界から「阿修羅」を取り除き「畜生」を「傍生」と表記して、「如来」を「一道無為宮」と「秘密曼荼羅金剛界宮」とに分けています。

 とは言え、この『十住心論』には十界論の用語も使われているので、これは天台宗の世界観が間違っているということではなく、解釈の違いです。

 このことを踏まえると空海聖人と日蓮聖人の教えには、実際には矛盾がないということも理解できるのですが、それについてはおいおい触れていくこととしましょう。

 これから空海聖人は十界の具体的な説明に入っていくのですが、その前に空海聖人が何を目指しているのか、押さえておく必要があります。

 言うまでもなく空海聖人は「秘密曼荼羅金剛界」を目指すように言っているのですが、その前提として「菩薩」の段階があるのです。

 声聞・縁覚とは「自分が悟りを開くために頑張る」状態であり、菩薩とは「自分よりも先に他の衆生を救済する」状態です。これを空海聖人は真言の「初門」であると位置付けています。

 ここでいう「衆生」には「人間」だけでなく「神々」や「動物」さらには「地獄・餓鬼に堕ちた魂」も含まれます。地獄に堕ちるような極悪の魂をも救うのが菩薩であり、このことについて空海聖人は

深く荘厳秘蔵を開くときには、則ち地獄天堂、仏性闡提、煩悩菩提、生死涅槃、辺邪中正、空有偏円、二乗一乗、皆是れ自心の仏の名字なり。焉をか捨て焉をか取らん。

と述べています。簡単に言うと「地獄も展開も仏も闡提(反仏教の人間)も迷いも悟りも小乗仏教も大乗仏教も、みんな仏の別名である」ということです。

 この境地に至ることが「悟り」を開く(空海聖人の言葉を借りると「深く荘厳秘蔵を開く」)ということであり、『十住心論』はそのことを念頭に置いて読み進めていく必要があります。

貴族の趣味「鷹狩」は「善悪を知らない凡夫」

 さて、空海聖人は『十住心論』で人間の心を十段階に分けました。の状態()のじるからこそ『十住心論』というタイトルなのですが、その冒頭に掲げるのが「異生羝羊心」です。

異生羝羊心とは、此れ則ち凡夫の善悪を知らざる迷心、愚者の因果を信せざる妄執なり。

 要するに「善悪を知らない凡夫の心」なのですが、彼らが具体的にどういう行動をするのか、空海聖人は次のように書かれています。

遂に乃ち滋味を水陸に嗜み、華色を乾坤に耽る。

 「乾坤」とは「天地」のことです。要するに「耽美的な生活を送るのは良くない」というのですが、この後で空海聖人は凄いことを言いだします。

鷹を放ち犬を催して塡腹の禽命を断ち、馬を走らせ弓を彎いて快舌の獣身を殺す。

 これはどういうことかというと「鷹狩で動物を殺して楽しむのは『善悪を知らない凡夫』のすることだよ」と言っているわけです。

 さすがは空海、何という命知らずか。当時の貴族の社会の間で鷹狩は人気のレジャーでした。空海聖人が『十住心論』を提出した相手の淳和天皇も鷹狩をしたことはあったでしょう。

 何せ、淳和天皇の父親の桓武天皇と兄の嵯峨天皇も鷹狩の名手。しかもこの二人の天皇が空海を取り立てたのです。

 そんなことを知ってか、知らずか(恐らくは知っていたでしょう)、堂々と時の天皇に対して「鷹狩をするのは異生羝羊心である!」と言っている空海聖人、中々の曲者です。

 このことからも、空海聖人に権力へ媚を売る気など、さらさらないことが判ります。

自然破壊を省みないのは「異生羝羊心」である

 こうした空海聖人の思想は今のアニマルライツやエコロジーの萌芽である、とも言えます。

 空海聖人は異生羝羊心の例として、さらに次のことを書いています。

沢を涸らして鱗族を竭し、藪を傾けて羽毛を斃す。

 川の水を涸らして魚を殺し、森林伐採によって鳥や獣を殺す、これも「善悪を知らない凡夫」のすることである、と空海聖人は述べています。

 この文章自体は当時の猟法の残虐性を批判したものですが、これを読んで「今の時代の政治家の前に空海が現れてほしい!」と思ったのは、私だけではないでしょう。

 今の時代、世界では毎年本州の半分に相当する面積の森林が失われているといいます。このような大規模な自然破壊も当然「異生羝羊心」です。

 日本でも安倍政権の推進するリニア新幹線で各地の水源地が枯渇しています。まさに「凡夫の善悪を知らざる迷心」としか言いようがありません。

合い囲むるを以て楽しみとし、多く獲たるを以て功とす。解網の仁を顧みず、豈に泣辜の悲しびを行はんや。

 これは民衆から富を奪って独占し、それを自分の功績として誇らしげに楽しむ、当時の貴族社会の風潮を批判しているかのようです。また、今の資本主義社会にも通ずるところがあるでしょう。

 元々、律令国家では国民は全員平等という建前でしたが、空海の時代に入ると荘園制の導入等でその建前が崩れかけていました。今の時代も一部の勢力による国家私物化が進んでいます。空海聖人の言葉は今の時代にも通じます。

 宗教家が政治に関与することの是非については色々な意見があります。私は宗教家が権力を握ることには反対ですが、一方では権力者に対して諫言するのは寧ろ宗教家の義務であると思います。

 何故ならば、権力者の動向次第で民衆が苦しむこともあれば救われることもあるからです。本当に衆生を救いたい、と思っているのであれば権力者相手に提言するのは必要なことです。

凡夫が犯してしまう「十悪」の業

 さて、こうした「異生羝羊心」のままでいると悪業を積み重ねる一方であると、空海聖人は言われています。

凡夫所動の身口意業は、皆是れ悪業なり。

 「業」というのは、これまでの「行為」の積み重ねです。「身業」「口業」「意業」の三種類があり、これを合わせて「三業」と言います。

 「身業」というのは自分の肉体で行う具体的な行為です。

 「口業」は自分が発した言葉であり、「意業」は心の想念です。

 良いことを想い、語り、行うと「善業」が積まれて、逆に悪いことを想い、語り、行うと「悪業」が積まれます。

 それでは、具体的にどういうことが「悪業」を積むことになるのか、というと空海聖人は「十悪」を挙げています。この「十悪」というのは

①殺生。
②偸盗(ぬすみ)。
③邪婬。
④妄語(うそいつわり)。
⑤離間(人を仲たがいさせる言葉)。
⑥麁悪。
⑦無義(まことのないかざった言葉)。
⑧貪欲(むさぼり)。
⑨瞋恚(いかり)。
⑩愚痴(おろかさ)。

の、十個です。最初の3つが身業、中の4つが口業、残りの3つが意業です。

 こうした悪業を積むとどうなるか、空海聖人は次のように述べます。

是くの如きの十種の悪業は、一一に皆三悪道の果を招く。

 三悪道とは「地獄」「餓鬼」「傍生(畜生)」のことです。十悪の行いをしていると「人間以下」の世界に生まれ変わる、ということです。

動物食と植物食とは何が違うか

 そして、この「十悪」の具体例について肉食を挙げています。

且く初めの殺生業に就きて之を説かば、衆生の皮・宍(ニク)・角等を貧するに由るが故に有情の命を断つ、彼をして苦痛を受けしめて、故に地獄の苦を感す、其の血肉に味著するに由るが故に餓鬼の果を感す。

 殺生の具体例として「衆生」である動物を殺して皮革を利用したり肉食をしたりすることを挙げているのです。

 「有情」というのは個体としての感情を持った生き物のことです。植物は確かに生き物ですが、個体としての感情が強いわけではないので「非情」と言われます。

 動物たちは自我の感情が発達しているからこそ、殺されるときに地獄の如き苦しみを感じます。そうして得られた肉の味に執着して悪業を積んでいると餓鬼道に堕ちます。(地獄と餓鬼道の違い等は二回目以降で触れます。)

 これは今のアニマルライツ(動物の権利)の理論を先取りしたものです。よく菜食主義者に言われるのは

「どうして植物は食べるのに、動物は食べないの?」

という疑問ですが、これについて仏教では

「動物には自我による感情があって、殺されると苦しむから。」

という風に答える訳です。なお、動物を救う思想は大乗仏教に特有のもので、上座部仏教では「場合によっては肉食をしても良い」となっています。

肉食は衆生(動物たち)への「忘恩」である

 さらに空海聖人は次のように述べます。

一切衆生は皆是我が四恩なり。無明愚癡に因るが故に、彼の血肉を愛して其の命根を断つ。此の愚癡の罪に坐(つみ)せらるるが故に、畜生の果を感す。

 ここで「四恩」という言葉がキーワードになっています。この「四恩」とは、

・父母の恩

・国王の恩

・衆生の恩

・三宝の恩

の、4つです。要するに、

・両親への報恩感謝

・天皇陛下への報恩感謝

・衆生(神々・人間・動物等)への報恩感謝

・仏様・お経・僧侶への報恩感謝

が大切である、ということです。要するに全てのものから人間は恩恵を受けているので感謝しないといけないのですが、中でも特に大切なのが「父母」と「天皇」への感謝です。

 ところで、もう一度空海聖人の文章を読むと次のように書かれています。

一切衆生は皆是我が四恩なり。

 つまり、全ての動物は例外なく「四恩」である、というのです。「衆生の恩」であるだけでなく「父母の恩」でもあり「国王の恩」でもあり「三宝の恩」でもあるのです。

 ここには「全ては一体である」という空海聖人の深い悟りが込められているのですが、それを置いておくと我々は動物たちから恩恵を受けているという事実を忘れてはならない、と空海聖人は言っています。

 今でこそ、人類社会が自然の生態系の恩恵の上に成り立っているのは常識ですが、それを平安時代から言っていたことに空海聖人の先見の明があるといえるでしょう。

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