谷口雅春先生は「戦争は人間の霊魂進化にとって最高の宗教的行事」と言っていない

 最近、生長の家創始者・谷口雅春先生が「戦争は人間の霊魂進化にとって最高の宗教的行事」と述べていた、というデマが広がっています。

 さらに、雅春先生の思想が今の安倍政権・日本会議に影響を与えているかのような印象操作も行われています。このことについて、現役の生長の家青年会会員として検証しようと思います。

「最高の宗教的行事」発言の出典

 この出典とされるのは、「衆議院議員・稲田朋美氏と生長の家創始者・谷口雅春氏の思想」なる記事に転載された次の文章です。

 私は『大自然が催し、大自然がはかろうて自分をその境遇にまで追い寄せた現在の生活』を百パーセント完全に生きることが、生長の家の生き方であるといった。この意味において『戦争』というものが吾々に課せられた場合には(現に課せられているのであるが)それを完全に戦い抜くことが生長の家の生き方でなければならないのである。今与えられた環境から飛出すところの出家道は、否応の選択が働くのであるから、戦争というものは魂の修養にならないというような価値判断がはたらいて、戦争忌避や、敗戦主義に捉えられるおそれがあるが、生長の家では出征する人にとっては戦場が直に魂の修養の道場となり、戦争が直に吾々の魂を練るところの公案となるのである。多くの人たちは戦争の悲惨な方面ばかり見ていて、その道徳的、宗教的意義を理解しない。そして動もすれば戦争を忌避するのであるが、戦争は実に真剣な、否応なしに左右をいわずに、ただひたすらに至上命令に従うところの激しき宗教的行事なのである。しかも同時に、肉体の『無』を理屈でなしに実証するところの行事である。かの天華の修行に天華の教祖渡辺薫美が修行者たる一婦人に課したところの『千仭の谷へ、今跳べ!』の必至命令の如く、否やの選択を許さぬ絶対命令と同じことである。『爆弾を抱いて、そのまま敵のトーチカに跳び込め!』これに対して、軍人はただ『ハイ』と答えて跳び込むのである。宗教の修行においては、たとひ教祖の命令通り跳び込まなくとも、『修行が足りない、まだ心境がそこまで達していない』位で許されるだけに、それは修行の『型』をやっているだけである。また、その命令者が教祖という個人である。しかし戦争においては否応はない、言葉通り肉体の生命が放棄せられる。そして軍隊の命令者は天皇であって、肉体の放棄と共に天皇の大御命令に帰一するのである。肉体の無と、大生命への帰一とが、同時に完全融合して行われるところの最高の宗教的行事が戦争なのである。戦争が地上に時として出て来るのは地上に生れた霊魂進化の一過程として、それが戦地に赴くべき勇士たちにとっては耐え得られるところの最高の宗教的行事であるからだと観じられる。

 長文になりましたが、この最後の

戦争においては否応はない、言葉通り肉体の生命が放棄せられる。そして軍隊の命令者は天皇であって、肉体の放棄と共に天皇の大御命令に帰一するのである。肉体の無と、大生命への帰一とが、同時に完全融合して行われるところの最高の宗教的行事が戦争なのである。戦争が地上に時として出て来るのは地上に生れた霊魂進化の一過程として、それが戦地に赴くべき勇士たちにとっては耐え得られるところの最高の宗教的行事であるから

という部分が赤字で記さており、この内容が「戦争は人間の霊魂進化にとって最高の宗教的行事」という風に「要約」されたようです。

「大生命への帰一」を雅春先生は称賛

 さて、この部分、引用者による悪意ある抜出ではなく、前後の文脈をとらえてよく読んでみましょう。

宗教の修行においては、たとひ教祖の命令通り跳び込まなくとも、『修行が足りない、まだ心境がそこまで達していない』位で許されるだけに、それは修行の『型』をやっているだけである。また、その命令者が教祖という個人である。しかし戦争においては否応はない、言葉通り肉体の生命が放棄せられる。そして軍隊の命令者は天皇であって、肉体の放棄と共に天皇の大御命令に帰一するのである。肉体の無と、大生命への帰一とが、同時に完全融合して行われるところの最高の宗教的行事が戦争なのである。

 これを見ると明白なように、ここでは

「宗教の修行」⇒命令者は教祖

「戦争」⇒命令者は天皇

という風に、対照的に捉えられています。そのうえで、「教祖の命令で行う宗教の修行よりも、天皇の命令で行う戦争の方が最高の宗教的行事である」という文脈であること、正常な国語力のある方には明白であると思います。

 従って、

肉体の無と、大生命への帰一とが、同時に完全融合して行われるところの最高の宗教的行事が戦争なのである。

は、一般論として述べられているのではありません。前後の文脈を見る限り、これは

天皇が命令者である戦争は、肉体の無と、大生命への帰一とが、同時に完全融合して行われるところの最高の宗教的行事である

という意味にしか、解釈できません。

大東亜戦争についての雅春先生の評価

 さて、谷口雅春先生は元々大東亜戦争が天皇陛下の命令であると信じていましたが、その後は「迷いの戦争であった」という一方で「聖戦であった」とも言っているため、混乱されている方がいるようです。

 また、雅春先生の大東亜戦争に関する認識自体に変化があったようです。ここで注意しないといけないのは、雅春先生は政治家でも歴史家でもない、ということです。

 宗教家の発言は同じことでも全く違った表現であることが多々あります。有名な例でいうと、『聖書』や『コーラン』でも同じことを異なる表現で記されていることが少なくありません。宗教家とはそういうもの、ということを前提に考えてください。

 そのうえで、谷口雅春先生が最晩年である昭和58年12月号の『理想世界』誌に掲載された文章「私は今後絶対に「戦争」を起こさせたくない」を引用します。まず、冒頭にこう記されています。

 嘗ては神武不殺の神聖部隊であった日本軍隊が、どうしてこの「南京大虐殺」を、今に至るまで当時の戦争を回顧して記述するいろいろの雑誌記事を賑わしているのだろうか。どうして神武不殺の神聖日本軍がいつの間にか南京大虐殺を為したといわれるような悪魔的地獄部隊に変貌したのであろうか、茲に私はその由縁を考えて見たいのである。

 そして、当時の日本軍が招聘した軍人を「一銭五厘」の命として扱っていたことを挙げて

たとい戦争で自分の命を落とすも尊き天皇の軍隊の一員として命を落とすのであるならば、それは命を落としても落とし甲斐のあることであった。天皇の命の中に包摂せられて自分の生命が最高のところへ赴くのだからである。

と、先述の「そして軍隊の命令者は天皇であって、肉体の放棄と共に天皇の大御命令に帰一するのである。肉体の無と、大生命への帰一とが、同時に完全融合して行われるところの最高の宗教的行事が戦争なのである。」と、同じ趣旨のことを言われています。

 しかし、それが実際には当時の軍隊は天皇の軍隊でも何でもなく、兵士の命を軽視する軍隊である結果、その反動で兵士が残虐行為に走り

日本軍の南京大虐殺と云う四十数年後の今も尚忌々しい汚名を払拭することのできない日本兵の深刻なる残虐の歴史が刻まれる悲劇が生じたのであった。

と、されています。そして、有名な岡本寧次中将の「今の日本軍は皇軍ではない」発言も引用しています。

 さらに、戦争中の性暴力はそれが戦争である限り、必然的に起こるものであるとして

 戦争が起きると、その副反応としてこのような性犯罪が起る――それだから、どんな理由があるにしても、その弊害の方が大きいので私たちは戦争をしないように、常に国際関係を調節して行かなければならないと切に思う。

と、結ばれています。

稲田朋美議員らの目的は雅春先生の御教えの抹殺・改竄

 そもそも、稲田朋美議員を始めとする安倍政権・日本会議の関係者を谷口雅春先生の御教えと結びつけるのが、そもそも可笑しいのです。

 日本会議本部事務局である日本協議会は自称「谷口雅春先生を学ぶ会」の結成を実質的に支援するなど、雅春先生の名前を利用しようとしています。そして、安倍政権に反対する正当な生長の家に対して「左翼」のレッテルを貼っています。

 しかし、彼らの本当の目的は、上皇陛下に「譲国の儀」を行わせず(明治維新150周年記念式典にも陛下を招聘せず)、『日韓慰安婦合意』『日台漁業取り決め』「TPP」「一帯一路」を推進する朝敵売国政権である安倍政権を支持することです。

 安倍政権が朝敵売国政権であることを隠すために、尊皇愛国の谷口雅春先生の名前を利用して保守派の有権者や生長の家の信徒を騙しているのです。

 雅春先生は確かに戦後も「大東亜戦争は聖戦である」ということはありましたが、それは全て「大東亜諸民族を欧米列強による植民地支配から解放した」という文脈で、であり、戦争一般を肯定したことはありません。

 今の安倍政権の「戦争参加法制」は欧米列強の侵略戦争に日本も参加する、というものですから、谷口雅春先生が聴くと大反対したこと、疑いようがありません。





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日野智貴

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