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ピアノを弾いたらインドネシアの財閥子会社の社長になった話。

(※この記事は2024年2月「 #1か月間ブログ書くぞ 」企画の記事です。)

みなさん、こんにちは。
インドネシアでメディア広告事業を経営しています、長谷川と申します。

好きなことに無我夢中で取り組むと結果的に自分が想像していた以上の未来に人生が転がっていくという話を、今日はしたいと思います。自分の少年時代から今までの経緯を時系列で書いていきます、今回は少し長いです。


「風が吹けば桶屋が儲かる」

「風が吹けば桶屋が儲かる」という言葉、皆さん一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。大辞泉には、次のような意味が記載されています。

【 風が吹けば桶屋が儲かる 】
意外なところに影響が出ること、また、あてにならない期待をすることのたとえ。風が吹くと土ぼこりがたって目に入り盲人が増える。盲人は三味線で生計を立てようとするから、三味線の胴を張る猫の皮の需要が増える。猫が減るとねずみが増え、ネズミが桶をかじるから桶屋がもうかって喜ぶということ。大風が吹けば桶屋が喜ぶ。

(引用〈小学館 デジタル大辞泉〉より)

このように、最初の事象「大風が吹く」から想像もしなかった「桶屋が儲かる」という意外な未来が展開する、という例えなのですが、人生も同じようなことが起こっていると思うのです。

普通のピアノ好き少年だった11年半

小学校に入る直前、私は近所の子供のお母さんが弾いているピアノの音が好きになって「あの楽器を習いたい」と初めて親におねだりをしてピアノを買ってもらう、というところから私の人生は始まります。

ピアノの先生に習いながら買ってもらったピアノを弾く毎日、そのうち文部省(当時)主催のピアノコンクールなどにも挑戦するようになり、中学時代には音大の先生にピアノを教えてもらうようになり、コンクールで"審査員特別賞"みたいなものを受賞することも増えて、さらに自分が表現できる音楽の幅が広がってピアノにのめり込んでいきます。鍵盤楽器が弾けるということで、中学や高校ではロックバンドやポップスバンドに声をかけてもらって、X-JapanやBon Jovi、その当時流行っていたJ-Popの曲などにも触れることになり、クラシック以外の音楽の世界を知ってさらに音楽の奥深さを知り楽しみが増えます。

そんな感じで、小学1年生から高校3年生の夏までの約11年半、ほぼピアノを弾くこと、もっとうまく弾くことだけ考えて人生を過ごしていたような少年時代でした。学生時代にサッカー部に入ったり、その後社会人になって色々な事業に関わったりしますが、今の会社の事業含めて、自分の人生で11年半も一つのことを続けた経験はまだこのピアノだけです。そのくらい、周りのことに見向きもせずに一つのことだけに集中してのめり込んだのがクラシックピアノの世界でした。

夢から醒めて現実を見た高校3年生の夏

ところが高校3年生の夏に自分にとっての大きな事件が起きます。通っていた高校で進路指導的なクラスの時間があり、そこで先生に「大学に入ってゴールではない、そこで学んでその先社会人になってからの人生がスタート」「大学に入って、社会に出た後の未来の自分を想像してみなさい」ということを言われたのです。

私は当時自分の世界の中心はピアノで、世間のこともピアノの世界しか知らなかったため、音大に入ってその先ピアニストになることしか考えていませんでした。そして、今思うとかなりの思い上がりなのですが、音大に入れないという考えも全くなく、音大に入ったあとピアニストとして生計を立てられる人は一握りなのですが、ピアニストになれないかもしれないという発想も無く、自分が当然のように音大に入って卒業してピアニストとして生活している未来を想像したのです。

その時にハッと気づいたことがありました。自分がピアニストとして生活していくということは、1000人入るコンサートホールで800人は満足して帰っていただかないと商売にならない、でも"審査員特別賞"タイプの自分の弾き方の場合、200人は喜んでもらえても500人の好みには合わないかもしれない、ということでした。

一応プロになろうと目指していたので、800人の方に喜んでもらえるような弾き方は技術的には努力をすればできたかもしれないのですが、それは自分が表現したい音楽とは違ったものになってしまうというジレンマに気付いたのです。ピアノを生業とした瞬間に、自分が弾きたい弾き方でピアノ音楽と関われなくなるかもしれない、誰かを喜ばすために相手の好みに合わせてピアノを弾くのは仕事としては正解なのかもしれないけど、自分自身が「音を楽しむ」ことができなくて不幸になる、ピアノを嫌いになる、という未来を想像してしまったのです。

そこでキッパリと「ピアノは仕事にせずに趣味のままの方が、ピアノ好き少年のまま一生いられる」と思い直して、人生の方針転換をしました。

土壇場での進路変更

高校3年生の夏の進路指導の時間がきっかけで、音大に入ってピアニストになることを諦めた自分は、今さらどこに向かえば良いのか途方に暮れて、信頼している高校の先生に「音大を諦めました、自分はどうしたら良いでしょう?」と相談しにいきました。

自分の通っていた高校は国立の附属高校で、同級生たちは医者や弁護士になるつもりで勉強している子たちがたくさん居たのですが、自分の場合は自他ともに認める「音大志望」だったので、高校の遅刻欠席日数は年間100日くらいあり、地理も化学も歴史も物理も音大には必要なかったので、全く勉強しないまま高校3年の夏を迎えてしまっていたため、先生も私にどうアドバイスして良いかとても頭を使って言葉を選んでくださっていたと思います。

「音大を諦めました、自分はどうしたら良いでしょう?」の質問に対して、先生のアドバイスはこうでした。「まずは残りの4ヶ月センター試験の対策だけをしよう、2次試験で地理・歴史・化学・物理などがあるところは無理だから、2次試験で数学・英語・国語だけのところを選ぶことにしよう」「2次試験まではまだ時間があるから、とにかくセンター試験対策だけのことだけ考えたら良いよ」と言われ、自分はその先生の言葉を信じて先生の言う通りに準備しました。

結果的に4ヶ月という短期決戦だったことが功を奏して、集中が切れることなくセンター試験についての勉強だけを続けることができ、2次試験の足切りギリギリの点数で次に繋げることができたのです。センター試験の後は赤本で受ける大学の過去問を3−4年分練習して、先生の作戦通り「数学・英語・国語」だけで受験できる大学に臨みました。

2次試験当日に2つのラッキーが起こりました、これまでの過去問では数学の「数列」問題が毎年出るのがお決まりだったその大学・学部の2次試験で、自分の受験の年だけ「数列」問題が出ないで傾向が変わったのです。そしてもう一つ、例年は比較的難しい「英語」の2次試験が、その年はそこまで難しくなかったのです。これは、全科目の中で唯一「数学」がマシな方で「英語」が全く苦手だった自分にとっては、嬉しい2つのラッキーでした。

結果的に、数学が苦手で「数列」問題を想定していた文系の受験生たちは数学で苦戦し、英語が苦手な自分が英語が得意だった受験生たちに大きな差をつけられずに済んだのです。そんな幸運が重なり、私は無事大学に入学することができました。

ピアノにまた助けられる人生の節目

大学に入り、大学3年生からゼミに所属するのですが、神戸大学経営学部で面白そうなゼミの一つに金井壽宏 教授(当時)という「組織行動論、経営組織論、キャリア論」などの分野で有名な先生がいまして、同学年の学生260人に対して金井先生のゼミ生募集の枠が10人だったのですが、選考は面接形式でした。

5〜6人教授の前に座って、面接で教授から質問された質問は1つだけでした。

「あなたがこれまでに一番打ち込んだこと、
誰にも負けないと思うことについて教えてください」

当時20歳の自分が人生の半分以上費やしていたことがピアノだけでしたので、当然のようにピアノについて自分がやってきたことを面接で話し、結果その年の金井ゼミ生10人の一人に選んでいただくことができました。

その後も就職活動で話せることはピアノの話、後は大学時代になって初めて「勉強した」話くらいで、最終的に新卒社会人はSONY(株)からスタートすることになるのですが、結局大学時代も自分のことを説明する上でピアノに打ち込んでいたエピソードを外すことはできませんでした。

ゼミに入った後に金井先生に面接時の質問の理由を聞いたのですが、
「一つのことに打ち込んだ経験のある人、打ち込める熱意と集中力を持てる人は、その熱意と集中力が他のテーマ、例えば勉強や仕事に変わったとしても、スイッチが入れば打ち込んでいたことと同じように集中して打ち込むことができるから」という答えが返ってきました。

社会人になり、そして人を雇用する側の立場になった今だから分かりますが、確かに就職活動でも、特に就業経験のない学生であれば「何か一つのことに打ち込んだ経験」は採用する側からすると、一つの評価ポイントになっていたわけですね。

このように、高校を卒業しても人生の大事な節目節目で私はピアノに助けられてきたのです。

新規事業開発にハマった20代

そんな経緯で社会人になり、ソニーからパソナグループに転職してハマったことは「新しい事業を立ち上げる」ことでした。今まで無かったものをゼロからこの世に生み出す、というお題、過程、そしてその過程で失敗して学び自分の「できること」が増えること、新規事業を通じて広がる戦友・同志の絆、どれもがこれまでの自分の世界には無かった経験で、ピアノの次に自分が没頭できる世界としてのめり込みました。

結果的に24歳の時にパソナグループ社内起業で立ち上げた子会社は、28歳の時には社員70名、年商28億円の規模まで成長させることができ、その後に経営者として致命的な失敗をするのですが、その後もパソナグループの中で4つの新規事業の立ち上げを経験させてもらうことができました。

拠点を海外に移した30代

そして30歳になり「海外で自分がどこまで通用するか挑戦してみたい」と思うようになり、タイ・カンボジア・インドネシアと東南アジアでの新規事業の立ち上げの経験を続けることになります。

日本での新規事業経験を好意的に評価してもらえて得た初海外での仕事はタイのバンコクでの店舗事業、そのタイでの実績を持って任せてもらえたのがタイ法人のカンボジア子会社の立ち上げ、そしてそれらのタイ・カンボジアでの経験を買ってもらえてインドネシアでのメディア事業の立ち上げ、と人生が毎年自分が想像できる未来のさらにその先へと転がっていきます。

でもこの30代の時も、結局は少年時代に11年半ピアノに集中して打ち込めた経験が、常に自分の中で揺るがないものとして静かな自信と勇気を与え続けてくれていたように思います。

そして今、メディア財閥傘下の子会社社長に

インドネシアで2015年7月に立ち上げたメディア会社 Beautynesia社が、2019年にインドネシアのメディア財閥グループCTcorpグループからの買収を受けてメディア財閥傘下の子会社になり、創業COOだった私の役職もCEOとなりました。そして2024年1月より、この財閥グループ傘下の別事業会社のCEOも任せていただくことになり、自分が20代30代の時はおろか、数年前の自分が想像する未来でさえも「風が吹けば桶屋が〜」のように、想定外の展開を見せています。

それでも「何が自分の人生をここまで転がしてきたのか?」と内省してみますと、やはり「少年時代に好きなピアノに打ち込むことができたから」という答えに辿り着きます。人生の節目で何度か同じような振り返りをしましたが、何度考えても、結局自分のキッカケ・鍵は全てはピアノでした。好きなことに没頭して無我夢中でそのことに向き合うという経験が、その後の全てのシーンで自分の力になってくれていると思います。

自分が無我夢中になれることに打ち込む

そういった自身の経験から言えることは、自分が無我夢中になれることに打ち込むのは、人生を良い方向に転がす秘訣の一つだと思います。ネタは何でも良いと思います、ゲームが好きであればゲームでも良いですし、何かを収集する趣味があればそういうことでも良いと思うのです、無我夢中で没頭して自分の本気スイッチが入って取り組めることであれば。

私の場合はそれがたまたまピアノだったということです。ピアノが好きで無我夢中で11年半を過ごし、高校の勉強をほぼすっぽかして結局音大に行くこともピアニストになることもできませんでしたが、結果的にピアノに没頭した時代の経験、考え方、集中力、向き合い方、そういったものが、その後の人生の節目節目で自分を常に助けてくれて、そして今なぜか異国インドネシアの地で、現地の財閥グループ子会社の社長を任せていただくに至っているわけです。好きなピアノを弾いていたら33年後にインドネシアの財閥子会社の社長になるなんて、誰も想像できない未来でした。当時のピアノ少年が想像だにしなかった未来に因果に転がったのは、「とにかく無我夢中だった」からだと思います。

今私も三人の子供の親になり、自分の分身である次の世代に何かバトンを繋ぐことができればと願っていますが、結局自分が経験したことくらいしか子供に伝えることができません。ですので、せめて私の子供たちには「自分が好きなことをやりなさい」「無我夢中で没頭できることが見つかったら、何でも良いからそれを全力で応援するよ」というスタンスでありたいと思っています。

今日は私の生い立ちとこれまでの人生の変遷を改めて棚卸しさせていただく機会をいただきました。長い文章と人の人生話にお付き合いいただき、ありがとうございます。何か少しでも皆さんの人生にも関わる気づきがありましたら嬉しいです。

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