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1.【わたし】がcostume creatorになるまで…

応援してきてくださった皆様
そして初めましての皆様
costume-creatorの 新朋子 です。
<アタラシトモコ>と読みます。

かねてより衣装のこだわりを紙媒体にして欲しいという声を多くいただいておりましたが紙はなかなかハードルが高いので、新しいことにチャレンジしてこのnoteで発信させて頂くことにしました。
想いを発信できる場所が増えた【今】に感謝します。

皆様
どうぞよろしくお願い致します。

さて、今後の記事を読み進めて頂く上で、まずは
【わたし】ついて知っていただければ!


新朋子<アタラシトモコ>
生年月日 1972年2月5日
身長   151cm
体重   ダイエット中
アイコン メガネ

好奇心旺盛で探究心が強い。

記憶に残っている最初の舞台は5歳の時に観た【劇団仲間】の『森は生きている』
目をつぶると今でも色鮮やかに広がる。
素敵な衣装を身にまとった少女が森の中で<十二月の精>に出会う…

小学校に入学後、20分休みの図書室で<赤毛のアン>の世界に入り込み、先生が迎えに来るまでチャイムが鳴ったことにも気がつかない…
それほどに世界に入り込む私は8歳で初めて舞台に立つことになる。着せられた衣装の役どころを理解できない子役仲間4〜5人は場当たりの日、メイクと衣装が完成して演出家にいいね!!と言われたその姿に「なんの役??」と衝撃を受ける。おそらく場当たりでの、西田敏行氏から怒鳴られるシーンでその迫力にセリフが飛んだことを思い出す。初めての舞台の【目から受けた衝撃】と自分が舞台上に立った【体でうけた衝撃】とのギャップに観る方を選んだのだとおもう。
ただ、今思えば、初めて観た舞台のあの少女も話の流れから想像するに、おそらく"十二月の精"と出会ったあのシーンは、ボロを着ているはず。大人になった今もう一度観ておきたいと思っている。

小学校3年生の時に母にプレゼントされたパーカーが嬉しすぎて"残さねば!"と服を分解。糸を解くのではなくハサミで縫い代を切り落として…(笑)新聞で型紙をとってリビングのレースカーテンで作成。
リカちゃんの服を作っていた当時、縫代が必要という概念はあった。
なぜ【残したい】という感情になったのか…自分のことながら理解不能。
りかちゃん人形の服ではなく、等身大の服を初めて作ったのは9歳の秋のこと。

空を飛ぶ鳥を何日も観察してダンボールで羽を作り2階のベランダから飛んでみるも自分の腕の動かすスピードのために飛べないのだと実感。筋力だけでなくそもそも体の構造が違うのだが。
お部屋遊びよりも高台の木から蔦を選定してターザンごっこ。逆上がりをするためにスカートが邪魔だからと破いてしまう。そんな生活から一変、服をつくことに没頭し始める。

ベランダから飛ぶことも
パーカーの縫い代を切り落とすことも
カーテンでパーカーと思しき服を作ったことも

仕事から戻ってくる母は
いつも目をまんまるにして
驚いたあと、すごい挑戦をしたね!
と認めてくれた。
両親共働きの私たち3人(妹、弟)を
お伽話のように受け止めてくれた祖母もまた
私の挑戦に驚きながら育ててくれた。

ダイナミックな動きには圧倒的な運動量が必要であると、理屈ではなく感覚認識した幼少期。
私の根底には好奇心と探究心がある。

奨学金で入った大学。1年間散々遊んで、虚無感に駆られどうしても服の勉強がしたいと叔母に出世払いを約束して専門学校の夜間部へ入学。
政治経済学部経済学科とファッションデザイン学科、そしてアルバイトの三足の草鞋が始まる。欲張りな私は、経済学の本とポートフォリオを抱えての飲み会にも参加。友人からは人の3倍のスピードで生きているとよく言われたものだ。

先に大学を卒業し、アルバイトと専門学校夜間部の1年を経て
ランウェイブランドにパタンナーとして就職。
アタラシの作るものは着心地は良いけどつまらない、着心地は一旦忘れてもっと冒険しろ
とデザイナーである社長によく言われたものだった。
幼少期からの圧倒的な着心地が根底にある私のパタンナー奮闘期の始まりだ。

同ブランドで3年目にして、メンズラインの初代生産管理に抜擢される。パリと東京の時差にもめげず、レディースメンズのランウェイブランドの企画パタンナーとメンズの生産管理という真逆の思考回路のフル回転。
技術と頭を鍛えられて入社10年目の秋、娘の小学校入学を目前に退職。
半年間子供服を研究して、2006年4月、法人登記しファミリーブランドを立ち上げる。得意のパターンと生産管理で着々と上がってくる商品。全国行脚でスタートした新規取引先。全てがうまくいっていると思った2008年、シナリオが用意されていたかの如く騙される。

人と関わることに距離をおきたくなった当時の記憶は全てに色がない。気力を失っていてもお金の工面はしなければ…と外注パタンナーの仕事をとりながら、派遣会社に登録してスーパーでビール販売をする。毎日知らない土地でビールの特性を覚えて販売する。そんなある日、お客様が、『頑張って!』とビール山から沢山抱えてくださった。おそらくは前を向いてセリフを発してしたのだが、その声に急に現実に引き戻されたように意識がそこに戻ってきた。声の主は上島竜兵氏だった。人に騙されて色を失った私に色が戻った瞬間であった。その瞬間を境に再び、好奇心と探究心の塊の【アタラシトモコ】が戻ってくる。
『いつか仕事の現場で上島さんにお礼が言いたい』という思いを糧に次のステージが始まる。

外注パタンナーの仕事から派生して、スタイリストさんからの衣装縫製の仕事が舞い込んできて
いつしかビール販売に出かける時間がなくなり
再び洋服をつくる生き方に。

この時から始まったのは誰かのための服作り。
CM衣装、映画衣装、舞台衣装、ジャケ写衣装、はてはフィギュアの衣装まで。この時は着心地重視が大いに役だった。直接のオファーでテレビ番組の番組衣装さんを務めたのもこの頃。スタイリストさんの撮影現場に手伝いに行っことも何度も。

そして、またしても信頼していた人に裏切られる。さてこの先は…と思っていた2014年の夏にの日差しを感じ始めた頃
【新朋子】としてわたしに大きな衣装の仕事のオファーがはいる。それが2.5次元舞台と声優アイドル界との出会いになる。

ランウェイブランドにいた私は
デザインを作り出す企画パタンナー。
10年もの間、ただひたすらに
【オモシロイモノ】
【アタラシイモノ】
を作り続けてきた。
次のステージでは
CMや舞台衣装をスタイリストさんに相談されて衣装作り続けてきた。

そして
【再現】を求められる
という新しいチャレンジが始まる。

この続きは次の機会に!



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