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金魚 #かくつなぐめぐる

「書くこと」を通じて出会った仲間たちがエッセイでバトンをつなぐマガジン『かく、つなぐ、めぐる。』。8月のキーワードは「Tシャツ」「台風」です。最初と最後の段落にそれぞれの言葉を入れ、11人の"走者"たちが順次記事を公開します。

 仕事帰り、電車を降りて改札を出た瞬間、駅前のロータリーの様子がいつもより色めき立っているのが分かった。街灯の下ではしゃぐ男子学生たち。植込みの横で話し込む浴衣姿の若い男女。父親に叱られながらも、走り回るのをやめない黄色いTシャツの女の子。その手首に吊るされたヒモの先には、透明の小さなビニール袋があった。袋を満たす水の中でキラリと光る朱色の影に、私はやっと、今日が地元の夏祭りだったことに気付く。

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 今から20年以上前、中学生の私にとって、夏祭りは素直に楽しめるものではなかった。学期末試験の期間が、夏祭りの時期と完全に重なっていたのだ。変に真面目で人一倍要領の悪かった私は、親戚が集まる祖父母の家に行っても、台所の手伝いもせず、単語帳やノートと睨めっこをしていた。だから、私にとっての夏祭りはテスト勉強の記憶とセットになっていて、今でも屋台の灯りを見ると少し憂鬱な気分になる。

 勉強で頭がいっぱいだった私の息抜きにと考えたのだろう。母が出店でみせ で朱い細身の金魚を一匹買って来た。幼い頃は金魚すくいをやったこともあったし、自宅で金魚を飼っていた時期もあったけれど、私の家にはもう金魚を満足に飼育できるような水槽はなかった。十分に育てられない環境しかないと分かっていながら、わざわざ金魚を買って来た母の行動が、思春期の私には許せなかった。「命を大切に」なんて言っておきながら、ひと夏の楽しみのために小さな命をもてあそび、そしてそれが死んだとしても「仕方ないこと」として片付ける。そんな大人の振る舞いに、憤りを覚えたのである。結局金魚は、水中に酸素を送り込む「ブクブク」も付いていない、丸いガラスの入れ物の中で、翌日にはすっかり弱っていた。

 「だから簡単に金魚なんて買わないでって言ったのに!」
私のために金魚を買った母を、私は責めた。その夜、金魚の入った水槽を自転車の前カゴに入れ、私は近所の伯父の家に向かった。ベランダでたくさんの植物を育て、ハムスターも飼っている生き物好きの彼なら、金魚だって助けられるかもしれない。中学生の私はそう考えたのだ。

 テーブルの上に、丸い水槽を置く。弱った金魚は気を抜くと脱力して今にも水面に吸い寄せられそうだ。何度となく上を向きかける腹を正常な位置に戻そうとする金魚の姿は、なんとも健気に思えた。
「塩を少し入れると元気になるんじゃねえか?」
インターネットで調べた伯父が言う。私が半信半疑で台所の塩をひとつまみ水槽に入れると、金魚は活発に動き始めた。しかしこれは、根本的な原因を取り除くものではなく、対症療法みたいな、ショック療法みたいな、民間療法みたいなものなんだろう……。子供心にそう思った通り、また数分後には金魚の元気はなくなった。今にも泣き出しそうな私の顔を見て、伯父が言った。
「大丈夫。また新しい金魚を買ってもらいな」

 伯父の家からの帰り道、私は近くの橋の上に自転車を停めた。欄干から川を覗き込む。水面から橋まで10メートル以上の高さがあった。幅の広い川は闇の中で黒く光っていて、段差のある場所で所々白く泡立ち、音を立てていた。

 「死ぬ前に自然に返してやりたい」——そんな言い訳を作り、私は橋の上から、水槽の中の水ごと金魚を川に流した。暗闇の中で、川は相変わらず音を立てて流れている。金魚の姿は見えるはずもない。その川は金魚にとって、故郷でも何でもなく、たぶん「自然」でもなかった。私はただ、金魚の死に目に会うことから逃れたかった。自分からねだったわけでもない命。それが目の前で消えていくという状況から、どうにか逃げ出したかった。あと数時間で死んでしまうであろう金魚の存在を、早く自分から切り離してしまいたかった。

 すぐに死ぬと分かっていながら安易に生き物を飼う大人と、遭遇した生き物の死から目を逸らそうとする自分——いったい、どちらがズルいのだろう。背中に暗い川の音を感じながら、私は自転車を押して歩いた。

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 あの10メートルの落差で、小さな金魚は死んだだろうか。それとも無事に水面に辿り着いたものの、他の魚に食べられてしまっただろうか。はたまた、翌日の台風で空高く巻き上げられただろうか。遠ざかる意識の中、自分を見捨てた飼い主に、金魚は絶望を感じたのだろうか。
憂鬱な夏祭りの灯りの向こうに、音を立てて流れる暗い川と、朱い金魚の記憶がある。

バトンズの学校1期生メンバーによるマガジン『かく、つなぐ、めぐる。』。今回の走者は神田朋子さんでした。次回の走者は竹林秋人さん、更新日は8月19日(金)です。お楽しみに!

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