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遠い犬

 「見出し」の写真に、決まって愛犬が登場するnoteがある。ハロウィンの仮装をさせられ、キョトンとしている表情、意気揚々と散歩する様子、窓際で気持ちよさそうに昼寝をしている姿……。上品なレモンカラーとホワイトの毛並みは、艶やかで健康的。どの写真を見ても、飼い主に愛されているのがよく分かる。その中の一枚に、耳を垂れ、前足の上に顎を置き、上目遣いになった姿を写したものがあった。そのまっすぐな鼻すじと、柔らかそうな額を眺めていたら、ふと、昔飼っていた犬のことを思い出した。

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 その犬の名前はアン。猟犬の血が入った雑種だった。毛は黄土色で短く、三角形の小さな耳は常にペコリとお辞儀をしていた。吠えることがほぼなく、私が座っていると静かに近寄り、鼻先や背中、前足など、体の一部をそっとくっ付けてくる。時には私の太ももに顎を乗せ、じっとしていることもあった。表情はいつもどこか困っているみたいで、眉間にシワを寄せていた。私はそのシワや鼻すじに触れるたび、アンの薄く温かい皮の奥に、小さな頭蓋骨があるのを感じた。

 厳密に言えば、アンは私ではなく、父が飼っていた犬だった。母と私は東京に住んでいたが、父は私が小学生の時に山の麓でひとり暮らしを始めた。父が移り住む前、そこは長らく空き家になっていたらしい。和洋折衷の平屋建てで、その古びた雰囲気がどことなく「となりのトトロ」に出てくる家に似ていた。周りには栗の木や梅林、屋根を覆うほどの大きな桜の木があった。アンの小屋は、その桜の木の下に置かれていた。

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 離れて住んでいたということもあり、私にはアンとの思い出があまりない。だが、初めて彼女に会った日のことはよく覚えている。私が高校生の頃、学校から帰ってくると、その日東京に来ていた父が布団を敷いて横になっていた。父の「おかえり」の声に「ただいま」と返し、そのまま洗面所に向かおうとした時、私の目に見慣れぬものが映った。掛け布団の隙間——父の腕の下から、小さな生き物がこちらを覗いている。
「……キツネ!?」 
 私は思わず叫んだ。それがアンだった。その頃のアンは、耳がピンと立っていて、まるで子ギツネのようだった。聞けば、知り合いの家で生まれた仔犬のうちの一匹で、処分されるところをもらってきたのだという。アンの小さな体は、好奇心と元気ではち切れそうだった。父によくなついており、父が歩くたび、その後ろをコロコロ、ポンポンと飛び跳ねていた。その夜、母が仕事から帰宅し、ドアを開ける音を聞いたアンは、興味津々で玄関に近付いていった。動物嫌いだった母は、アンを見た瞬間絶叫した。
「ネコだ!!」
 アンは慌ててピョーンと跳び上がり、一目散に父のもとへと逃げていった。動物に興味のない私と母にとって、仔犬は未知の生物だった。

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 私がアンに会うのは、年に数回、父の家に行った時だった。二回目に会う頃には、アンの体も大きくなり、無邪気さは消えていた。花壇をぐちゃぐちゃに掘り返した際にこっぴどく叱られたらしく、それを境にすっかりおとなしい犬になっていた。

 数えるほどだが、私もアンを散歩させたことがある。犬というものとの接し方が分からなかった私は、撫でるのも、リードを引くのもぎこちなく、アンと上手くコミュニケーションが取れていない気がした。私たちは互いにどこか、よそよそしかった。

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 アンの身に起こる出来事は、時々父から電話で聞いていた。母が仕事を辞め、父と暮らし始めると、母の口からアンの様子が語られることもあった。散歩中に父と林の中ではぐれ、イノシシの罠にかかっていたのを近所の人が家まで送り届けてくれた話。寒い冬の間は、暖を取るために落ち葉の山に身をうずめ、頭だけ出してこちらを見ているという話。自ら首輪を抜けては近所の家に潜り込み、ちゃっかりブラッシングを受けていたという話。これを聞いた時には、いったい普段どんな冷遇をされているのかと思ったものだ。

 ほぼ会うこともない飼い犬の姿を、電話越しに想像する。それは、子供時代に遊んだきり、疎遠になって顔も思い出せなくなった親戚の近況を、親づてに聞く時の気持ちに似ていた。

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 歳をとってから、アンは徐々に体調を崩すようになった。食が細くなり、食べたものを吐いてしまうこともあったようだ。私が最後に会った時には、白内障で瞳に雲がかかっていた。15年前、父の足元でポンポンと飛び跳ねていた頃の面影はもうなかった。母は仔犬時代のアンを可愛がらなかったことを、少し後悔しているようだった。

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 アンの死を、私は母親からのメールで知った。一緒に住んでいなかったせいか、「ペットロス」というようなものは感じなかった。年老いた犬の命がひとつ消えた。ただそれを、自分とは遠い場所で起きたこととして受け止めていた。

 私はアンの日々の成長を近くで見守ることも、その小さな変化に寄り添うこともして来なかった。時折耳に入ってくるエピソードを、ただ頭の中で並べていた私にとって、アンの一生は細切れの映画フィルムのようだった。平凡な日常の部分は取り除かれ、びっくりするような出来事や、ちょっとした事件、思わず笑ってしまう場面ばかりが繋ぎ合わされている。そのことが、余計にアンを私にとって現実味のない存在に感じさせていたように思う。

 アンの死が悲しくないわけではなかったが、ここで私が泣くのはちょっと違う気がした。

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 それからしばらくして、私は山の麓の家に行った。アンの墓は桜の木の下に作られていた。眼下には、梅林と田んぼが広がっている。遥か遠くに見えるの木々の間を、列車がカタコトと音を立てて走っていった。

 愛着とはきっと、人生の“ハイライト“ではなく、名もなき平凡な日々を共にすることで湧くものなのだと思う。

 私はアンの眠る場所に立ち、彼女の目に映っていた「何でもない日常」を想像した。

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