「主観的なものと客観的なものという概念は、いつの間にか完全にさかさまになってしまった。」アドルノ「ミニマ・モラリア」




「主観的なものと客観的なものという概念は、いつの間にか完全にさかさまになってしまった。」(アドルノ「ミニマ・モラリア」91-2)

 主観から始めてみよう。主観とはある1つの個人主義的視点を重視するひとつのイデオロギー。「あなたは…」「私は…」相対主義に陥らざるを得ない。「マイノリティの立場に立って考えなさい」各々の主観が尊重され大切にされる。「他人の気持ちを考えなさい」個我をペンディングして「外部」から抽象的に別の「主体」を尊重=客観する視点においては「個我が解体」され「自我喪失状態」、万人が「客体」となる。各々の主観を尊重するには客観に行き着かざるを得ず、主観が喪失される。(アドルノibid.)

 他の主体にも自身にも、どの視点にも重きを置かないで客観性を追求するには、全ての客体を対等に無価値、無感情で捉えなければならない。ある一つの視点を強調することは相対主義=人間主義的とは言えない。「差別してはならない」のだ。つまり、自身の感情に幻惑されず客体を=「事物の仲間に入れて」冷徹に理解、尊重されねばならない。(アドルノibid.)

 したがって、客観的な「いいね♡」の数、商品レビューや評価に倣い「対象そのものに対する関係を、対象を熟視したことすらない連中の多数決にとって代える行き方―つまりは客観的態度」が蔓延し、模範的な民主主義者を育成し大衆社会を生み出した。(アドルノ ibid.)これはケインズの「美人投票」の例における資本主義的マーケティング心理に同じ。自我を喪失した客観的人間が政治的には民主主義、経済的には資本主義の発展の礎になっている。

 そして、ある一つの視点を優越して捉えることはプラトニズム。ひとつの暴力なのだと主張されながら、主観はここにおいて否定されていることが分かる。つまり、主観を大切にする視点を持たない客観性とは相対主義=ソフィスト的視点にすぎず自己利益を追求する個人主義=「主観」。我々は主観から出発し、客観を通って主観に戻って来ることとなった。(アドルノ否定弁証法講義)

 こうして、主観性=客観性=相対性は逆さまにその姿を現しながら、すべてを「客体化し屈服させる武器を社会に提供した」(アドルノibid.)結果的に、客観という理性的、道徳的カント的世界とは万人の格率に自己の格率を合わせ自己を喪失したサディスティックな暴力的世界であり、客観性=相対主義とは絶対主義の兄弟となる。しかしながら、「客観」という「野蛮」はそれを解せず自己、つまり主観を正当化している。(アドルノ 否定弁証法講義)

 結論として、個我を喪失させすべてを相対化する客観性は見てくれ美しいが主観に過ぎない。したがって、リオタールがいうように、客体的なモダニズムがすべてを相対化するポストモダニズムの生みの親となることも理解できよう。モダニズム=ポストモダニズム、両者が同一、同じコインの裏表であることは自明のことである。客観とは自我を喪失し感情を失ったひとつの主観、透明ではあるが暴力的な主観にすぎず、「人間主義の終焉」とも呼ぶことができる。(リオタール「子どもたちに語るポストモダン」)


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