カヴェル「没落に抵抗すること」

シュペングラー「西洋の没落」の第一行目は、歴史の予言的実現の約束で始まる;「歴史を前もって定めようという試みがなされたのは、本書がはじめてである」獣の道や人の歴史には予定調和が見られるゆえ栄枯盛衰も予測可能というトインビー派の理論として継承されたこの理論がヘーゲルやマルクス、そしてニーチェ等の歴史哲学の影響を受けていることは言うまでもない。

資本主義は人の心を自然に社会主義化する傾向を有し、民主主義という多数の支持する獣道というファシズム=予定調和に、ひとは「迷わないで迷い」没落してきた(シュペングラー)。では没落(Decline)に抵抗(Decline) し、マルクスらの預言に抗うには経済学者シュンペーターが引くように「死んでもいいから航海を続ける」しかない。

ヴィトゲンシュタイン専門家、ハーバード大名誉教授スタンリー•カヴェルは著書”Declining Decline”において「迷わない」で「迷う」人々に「迷う」ことで「迷わない」迷子生活を薦めソロー「森の生活」を引用している。

ゲーテもまた「まっすぐな道が見失われた鬱蒼とした森の内部」の迷い道こそが迷わない道だと主張している。なのになぜひとは森を出たのか?怖いからである。森を去らねば生き残れなかった弱者たる人間の「震え」が「言語」や「うた」「舞踏」となり、震えの「反復」は誤った思い込みや誤謬を現実化する自己成就的予言の効果つまり逃走経路たる獣道が形成され歴史は前もって定められる。(R.マートン)

言語とはつまり、震える「肉体」=弱者の強がり=「器官なき身体」(アルトー) が「おびえをなくすために口ずさむ」音に過ぎない。森に生きた動物のなかで唯一語ることのできる人間だけが「夢を育み」「望むこと」ができる魔術的動物であったが故に「ある」ものが「ない」「ない」ものが「ある」非意味的アナーキー的専制=人為的森のなかで動物を迷わせ領土を賭けた「盗み」(アルトー)=「脱領土化」の勝者となった。

愛する人の名や写真に口づけできたり「絵のような風景」「モデルのように美しい女性」etc.自然界で異常とされるこのような倒錯的言動は人間界では異常とはされない。「絵に描いたポットから絵に描かれた蒸気が立ち昇る」のを見て、絵に描かれたポットの中に「何か沸騰しているものがあるに違いない」虚像に実像を見る狂気。デマや噂話が実像と安易に倒錯されるそのような「盗み」の横行する人為的「森」にいま我々は生きている。(ヴィトゲンシュタイン)

ただ日々盗み盗まれ続けているので犯行それ自体を意識することがないだけだ。言葉そのものが根源的、構造的に既に「盗まれている」(デリダ)からだ。生まれた時に最も自分に近しい自分は言葉が発せられるやいなや自身を阻み続け自身から遠ざかり死と共にやっと自分に還れるのだ。(デカルト)

ジジェクの引いたラカン派の有名な古典的ジョークを引こう。自身を「種」と同一視し入院していた患者が自身を人間だと思い直し退院したが「他者=ニワトリが自身をタネと認知し食べられてしまうかもしれない」と再入院を自ら望んだそうだ。彼は言語による倒錯という人工的「森」に迷う強さに欠如しつつも同時に言語という他者からの「盗み」に抵抗した最も動物的な者とも言えるかもしれない。が、彼の帰還場所もまた人為的に構造化された場に過ぎない。

では、どうやったら「もの」に「もの」を返し地に足をつけて(to bring things down to earth;カベル)最も自然体で生きることができるのだろうか?あなたが思う私はあなたで、私が思うあなたは私。黒ヤギは白ヤギの、白ヤギは黒ヤギの手紙を読まず「語」が故郷から「遠ざかり」「さまよっている」ならばやはりそこに出かけていき「道を踏み外し続けること」でしか語を取り戻す方法はない。ソローが言うように森に入っても尚、ひとは「いともたやすく一本のきまった道を歩くように」なるからだ。だから「森に生きる(迷う)ために」もう一度お手紙を書かねばならないのだ。「さっきの手紙のご用事なあに?」と。




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