彼、深瀬昌久の残像を追って

【始めに】この記事はトモ・コスガのウェブサイトにおいて公開された内容を適宜調整したものになります。文中に遺骨の写真が含まれます。気分を害する恐れがあるため、予めご了承下さい。

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8月10日、北海道北部に位置する中川郡美深町にて、深瀬昌久の納骨式を執りおこなった。

2012年の没後、昌久さんの遺骨は諸事情により第三者が保管していたが、今年7月に遺族へと返還された。すぐに納骨式の日程が決まった。私はかねてより昌久さんを故郷の大地に還してあげようと提案してきただけあって、北海道行きのフライトを手に入れ、昌久さんの甥にあたるTさんと一緒に、遺族式に参加させてもらった。

数日前から関東地方を直撃するのではないかと騒がれていた台風13号。フライト日程を変更することでようやく旭川にたどり着いたが、式をおこなう当日の朝はあいにくの雨模様だった。深く霧がどんよりと立ち籠めていた。

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8月10日 8時30分。レンタカーで旭川を出発。

向かうは昌久さんの故郷、美深町。旭川からはざっと2時間。比布(ぴっぷ)、和寒(わっさむ)、士別(しべつ)と辿りながら北上していく。士別では、街の至るところに設置された看板がわざわざ士別という漢字を崩して「しべつ」と表記しているのを見て、なんだか悪趣味に感じられた。

1時間半も走ると名寄市に着く。この辺りまで来るとすっかり天気は好転して、じりじりと焼きつける日差しが出てきた。私は思わずスーツを脱いだ。

名寄には陸上自衛隊の駐屯地がある。地元民から見ても僻地の名寄が維持できているのは、自衛隊の隊員が飲食店などを利用するおかげもあってのことらしい。ここでイオンに立ち寄った。Tさんが「ここは日本最北のイオンなんだよ」と説明くれたのち、献花やワンカップを探しに店内へと消えた。

思いがけず晴れたので、趣味の昆虫採集をしたくてムズムズし始めた私は、ここで捕虫網を買い求めることにした。この日の晩には帰京するため、4時過ぎには旭川まで戻る必要があった。美深町に滞在できる時間はたった3時間足らず。それでも昌久さんが生まれた美深で昆虫を捕りたいと思った。

目当ての物は、イオン2階のキッズコーナーで見つかった。携帯に便利な伸縮式の捕虫網がわずかワンコインで手に入れられたことに小躍りしたが、すれ違う人々の視線が妙に突き刺さる。それもそのはず、スーツに黒ネクタイの男が捕虫網を持つ姿はきっと奇妙に見えたのだろう。

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さらに北上していく。

士別を越えた辺りから天塩川が目に入るようになっていた。日本最北端の稚内駅から旭川駅まで引かれた宗谷本線に寄り添うように流れる天塩川。その看板が目に入った瞬間、私の脳裏には1枚の写真がフラッシュバックしていた。

1935年、天塩川畔でピクニックをする家族を捉えた1枚の写真。それは昌久さんの父、助造さんが一家を撮影したものだった。被写体となった家族には当時1歳の昌久さんも写っている。その写真は、昌久さんが70年代に入って故郷を頻繁に帰省するようになった頃、生家で見つけたものだった。

1956年に日本大学芸術学部写真学科を卒業後、昌久さんは故郷や家族を振り返ることなく東京で写真家として活躍し続けたが、私生活では妻との衝突が絶えることがなかった。そこで家出を企て、9か月ものあいだ新宿でヒッピー達と暮らした時期も。

次第に疲弊していった彼は、1971年に故郷を懐かしみ、十数年ぶりに帰省をすることにしたのだ。以降は毎年帰省するようになり、生家を中心に自分自身のルーツをいくつも発見していった。そのきっかけを作ったのが、ほかでもない、天塩川畔に佇む家族の写真だった。

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「セピアに変色した1枚の記念写真、家族がいる、皆こっちを見ている。〈中略〉母は23才だった。とうの昔亡くなった祖母『みやの』がいる。母の妹2人がいる。〈中略〉 私の記憶はこの辺からのようだ」
深瀬昌久「明日は釣るぞ!」(『WORKSHOP 第4号』1975 年)

昌久さんが生涯、写真を通じて持ち続けた私性の眼差し。それは、この天塩川を舞台に、父の助造さん(とカメラ)を見つめることから始まった。その天塩川を横目に、私は得も言われぬ感動に包まれていた。

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程なくして、美深まで1kmというところまでたどり着いた。深瀬昌久について調べ始めてかれこれ18年が経った今年、いよいよあの美深に足を踏み入れるのだ。

「美深っていう名前はもともとアイヌ語の〝ピウカ〟が由来でね」とTさんが説明してくれた。ピウカとはアイヌ語で「石の多い場所」を意味する。つまり、美深町のすぐそばを流れる天塩川の砂利川原を指す。美深駅はかつて「ぴうか」と呼ばれていたが、1951年に読みを「びふか」に改めた。現地では今なお、ぴうかラーメンなどといった飲食店名などに、その名残りは確かめられる。

説明が遅れたが、Tさんは昌久さんの甥に当たる方で、現在は遺族の中で唯一、深瀬の姓を受け継ぐ。遺族代表として今回の納骨式を取り仕切ったのもTさんだった。

私とTさんと出合いは、今から13年も前のこと。当時、私は自分のウェブサイトで深瀬昌久について、自分なりに調べたことなどを書いては掲載していた。それを見たTさんが私にメッセージを送ってくれたのだった。

なんでも、もう誰も叔父のことなど知らないだろうと思いながらもその名を検索したところ、私のウェブサイトを見つけて、とても嬉しかったそうだ。何度かのやりとりを経たのち、私たちはじかに会って話をするようになった。その度にTさんが「おいちゃんはね……」と、昌久さんにまつわる思い出話を聞かせてくれたものだ。

私が深瀬昌久を知ったのは2000年頃である。当時、私は大学生だった。彼の壮絶な人生はさることながら、その写真はまるで私の眼を貫くような鋭さで突き刺さってきた。以来、夢中で彼について調べ始めたが、当時すでに高騰していた写真集はどれも手が出せなかったため、彼が作品を寄稿した雑誌を蒐集し出した。私はその雑誌蒐集をかれこれ18年間続けた。そしてそれらを1冊の本にまとめ上げたのが、赤々舎より刊行された写真集『MASAHISA FUKASE』である。

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美深町に着く頃には、11時近い時間になっていた。

Tさんは朝から神主に電話をかけていたが、一向に出ないことを心配していた。現地にたどり着いて、どうやら予感は的中したようである。神社を訪問しても留守だった。誰もいない。

しばらく待つと、1台の軽自動車がやってきて、神主さんと奥さんが降りてきた。すっかり年老いた神主は自分自身で歩くのもままならない様子で、奥さんを杖にしながら歩いていた。Tさんが話しかけると、神主の奥さんは「15日の予定です」と言う。どうやら予約時点で誤解が生じていたらしい。

はるばる東京からやってきた私たちは、はいそうですかと帰るわけにもいかず、なんとか説得した結果、墓まで移動することになった。町の外れまでやってくると、森のすぐそばに墓地が見えてきた。

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深瀬家は神道のため、納骨の際には神社の神官が埋葬祭をする。

なお神道において死は穢れであることから、神社は墓地を抱えない。そのため一般の墓地に墓を作り、納骨の際には墓地まで神官を連れて行く。神道の墓石には「奥都城」(おくつき)と刻まれ、墓石の天辺はピラミッド状に尖る。これは、三種の神器のひとつである草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)をかたどったものだと言われている。

仏教でいうところの改名はされず、代わりに霊号がつけられる。男性であれば「大人」(うし)、女性であれば「刀自」(とじ)などの称名(たたえな)が元の名前の下につき、最後に「命」(みこと)が添えられる。だから昌久さんであれば「深瀬昌久大人命」となる。仏式の葬儀が死者の魂を極楽に送りだすことであるのに対し、神式の葬儀は死者を一家の守り神に奉ることを意味する。

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神主がお祓いをした後、納骨となった。

一同が壺を墓内に収めようとしたところ、神主の奥さんが口を開いた。

「早く土に還してあげるためにも、骨壺のまま入れないの。骨を壺から出して。布の上に広げて、包んで、それからお墓に入れてあげるのよ」

墓を開けてみると、中には3つの骨壺が収められていたが、その下には地面の土と混じり合いながら葬られた古い骨の断片が確かめられた。つまり、かつては墓に骨をそのまま埋葬していたということだ。私たちは先の助言に従い、すでに収まっていた3つの骨壺と今回のそれの中身を1枚の白い布に取り出したのち、丸ごと包んで収めることにした。

一番手前に収められていた壺を開くと、まるで焼かれた直後のように真っ白な骨が収まっていた。最後に亡くなったのはTさんの父(昌久さんの弟)であるから、かれこれ14年近く前になる。それだけの時間が経っても、壺の中にあっては当然ながら土には還らないのだ。一同はなるほどと納得しながら、最も古い骨壺(それは高さ10センチほどの小さな壺であった)から骨を取り出し、次にもう一回り大きい壺(15cm程度)、その次に墓内の一番手前に収められていた壺といった順で、骨壺の中身を取り出していった。これで、墓に納骨されていた壺の中身は全て開けたことになる。

墓の傍に添えられた墓誌と埋葬された順から推測するに、初めの壺ふたつの中身は昌久さんの両親のものだろう。そして墓の底に確かめられた剥き出しの古い骨はおそらく祖父母のものだろう。

最後に、それまで私が抱えていた桐箱から昌久さんの骨壺を慎重に取り出した。壺の中身を全て出し切ると、布の上には相当量の骨の山ができた。

父、母、弟、そして昌久さん。かくして家族4人の骨が混ざり合った。かつて山形県から屯田兵として北海道に入植した昌久さんの祖父、庸光さんが上川支庁写真師鑑札を取得し、美深町に「半農半写」の写真館を開業したのが1908年。それから110年が経った今、一家の亡骸は深瀬家の墓の中で渾然一体となった。

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神主の奥さんが丁寧に結わき、Tさんが墓内に収めた。

西瓜、そうめん、野菜にワンカップ、ビール、煙草。神饌(しんせん)と呼ばれるお供え物を墓の前に並べ、埋葬祭をおこなった。それが終わると、すぐさまお供え物を片付け始めた。北海道にはワタリガラスが実に多く生息しており、供え物を放置すると漁ることから、持ち帰るのがここでのルールだった。

「供え物は皆さんで食べ分けて下さい。煙草は1人1本ずつ吸ってもらうとかしてもらって」と神主。煙草を吸わないTさんと私は咄嗟に顔を見合わせ、苦笑いを浮かべた。ものの数十分で式が終わると、神主や参列者は散り散りになっていった。

私は、誰もいなくなった墓の前でもう一度、手を合わせた。

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さて式を終え、スーツから着替えると、私はTさんに昆虫採集をしたいと告げた。了解してくれたTさん共に再び車を走らせ、虫を採るにはどの辺りが良いかについて話し合った。

虫採りは人の敷地内だと都合が悪いと伝えると、それならスキー場の上にある公園が良いと提案してくれた。向かってみるとそこはよく整備された公園だった。私が虫採りをするあいだ、Tさんは墓参りの後片づけをしてくると言って、車で町へと戻っていった。

整備された公園と言えども、ここは北海道。すぐに豊かな種類の昆虫たちが出迎えてくれた。名寄のイオンで買ってきた網を片手に、進んでいった。

虫は、私たちの触覚を刺激する作りの身体を持っている。トゲの生えた6本の足、わさわさとした触角、瞬間的に開く羽。それはなにもじかに触ることなくとも、私たちの視覚を通じてその存在を訴えかけてくる。だからそれらがとても気色悪いものに感じられるのも無理もない。

そんな虫を捕まえる、すなわち「虫に触れる」ことは、実のところ写真を撮る行為に近い。なぜなら写真は、単に目で見てシャッターを切るだけではなく、対象物に触れるように視覚を触覚化させながら写すものだからだ。

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捕虫網を振り回しながらトンボや蝶を追いかけて登っていくと、途中で道が二股に分かれ、右に続く道は未舗装となり、そのまま森へと続いていた。もちろん、迷わず右折を選んだ。

青カナブン、サナエトンボ、トノサマバッタ。それらを追いかけてさらに奥を進んでいくと、まだ正午だというのに、鬱蒼と生い茂る森の奥から何物かがこちらを凝視するかのような深い視線を感じ、思わず身震いをした。あの奥に何かが潜んでいるのか、はたまた森が私が見つめているのか。

虫採りのために夜の森に足を踏み入れることはこれまでも経験していたし、先月は沖縄の森にも入っていた。しかしそれらとは明らかに「質」の違う不気味さが森の奥から感じられた。

北海道には、この国に生息する陸棲哺乳類で最大の種とされるヒグマが棲息する。ここ美深でもヒグマの目撃例はあるという。森に潜む生き物が神秘的であればあるほど、それらを孕む森そのものの存在感が強く感じられてもおかしい話ではない。

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直感を素直に受け止め、森に近づくのをやめて引き返すことにした。

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先ほどの分岐点まで戻ったところで、先ほどは選ばなかったもう一方の道を進んでみることにした。

私が歩む震動で、それまで地面に同化していた幾匹ものトノサマバッタが一斉に飛び跳ねては消えていった。ヤンマは私の手が届かない上空をグルグルと旋回していた。もはや虫採りは口実に過ぎず、美深の自然と呼応し合うのが楽しくて仕方なかった。

虫と戯れながら進んでいくと、急に視界が開けた。

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美深町の全体が見渡せる。どうやらスキー場のてっぺんまでたどり着いたようだ。そこは昌久さんが撮影した場所でもあった。

この場所に辿り着くまでの間、幾度となくフラッシュバックが私を襲っていた。これまで彼の写真の中で見つめてきた美深の景色が、実際の景色と重なるように蘇っていた。初めて訪れる場所なのに、不思議と懐かしさすら感じられた。これを喩えるなら、かつてここを訪れたという肌感覚があるものの、肝心の地名や過去にここでなにをしたかという記憶そのものはすっぽりと抜け落ちている——。

まるで記憶喪失のような感覚を覚え、思わず目眩がした。

すっかり晴れた美深の景色は、東京のそれよりもコントラストと彩度が高かった。その光景にやはり既視感を抱きながら、その理由をウンウン唸りながら考えていると、昌久さんが拘ったカラー写真の在り方について思い返すことができた。

彼はかつて、モノクロームとカラーの作品比率を7:3と答えたことがある。つまりカラーが圧倒的に少ないことになるが、作品としてカラー写真を好まない理由をふたつ挙げていた。まず1980年代当時はまだカラープリントの制作環境が整っておらず、自力で手がけるにはまだ手間がかかったこと。そしてラボに出すのでは逆に素直な色がそのまま出てしまうため、それはそれで気に入らないことであった。

「いわゆるいい調子にフィルム通りきれいにいけばいくほど自分のプリントとしてのくせというか、独自性というか、個性というか、天邪鬼のぼくとしての手造りの味のような質を要求した」
深瀬昌久「総天然色的街景 ポラロイド8×10フィルムを印画紙がわりにカラーの引伸し……」(『日本カメラ』1985年9月号)

そして1983年、20×24インチの超大型ポラロイドカメラで撮影したことがヒントとなって、彼はひとつのアイデアが閃いた。それは、ポラロイドフィルムをカラーペーパーの代わりにしてプリントするという手法であった。かくして1985年、カラーポラロイド作品「総天然色的街景」は出来上がった。

私はいま美深の景色を眼前に構えながら、「総天然色的街景」の独特なコントラストと彩度の残像を重ねていた。実は美深の景色を基準にしたのではないかとつい勝手に関連づけて推測してしまいたくもなる。事実、彼は1971年から1989年にかけて生家の埃を被った倉庫を漁っては自分自身のルーツを探り続けていたのだから、1985年の作品に美深の景色が投影されていたとしてもおかしくはない……などと、もはや答えの出ない憶測をしてはひとり興奮した。

13時を回ったところで、Tさんが私をピックアップしに戻ってきてくれた。その足で、かつて深瀬写真館があった場所まで連れていってくれるという。それは、丘から車で5分もしない場所だった。

1989年に廃業となった深瀬写真館は、その跡地に別の建物が建てられることもなくパーキングエリアに成り変わっていた。つまり、そこにはなにもなかった。そのためか、余計に昌久さんの写真の中のかつての景色が潜像として立ち現れて見えた。それは晩年の作品「私景」の1枚である。

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1989年、もうすぐ取り壊される深瀬写真館の前で、彼は自分自身の顔をフレームインさせながら写真館を写した。

1971年以来、たびたび帰省するようになってからすでに18年の月日が経っていた。1987年には父の助造が亡くなり、更には1989年に写真館は敢えなく廃業となった。彼が拠り所としてきたルーツが、時の経過と共にひとつふたつとこの世から消えていった。

その名残惜しさから、墓の前や写真館の前で自分自身もフレームインさせながら写真を撮った、とは考えられないものだろうか。いずれ消えゆくものと自分の接点を、写真の中に、揺るぎないひと時として刻むために。それがゆくゆくは「私景」なる作品群となっていった……またもや私は、真実が解き明かされることのない妄想に耽けていた。

彼の遺した言葉の数々が、脳裏を過ぎる。

「ぼくはこれからも、過ぎ去ってゆくことを止めようとして写真を写すのだろうか? すべてを止めたいと思いつつ写真するぼくの作業は、いま生きていることへの復讐劇かもしれない。そしてそれが一番好きなことでもあった」
深瀬昌久「烏2」(『カメラ毎日』1976年11月号)
「ふとしたきっかけで昨春ごろから、自分自身をフレーム・インさせることに凝っている。それは手や足だったり顔だったり街のスケッチだったりするが、すべてうつされた物事は自分自身の反映といえるから『私景』とした」
深瀬昌久「口絵ノート 私景——旅の便り」(『日本カメラ』1990年12月号)

「あそこに立っているのが、ニレの木だよ」

そうTさんに声をかけられ、ハッと我に返りながら後ろを振り向くと、立派なハルニレの木が目に入った。

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樹齢250年以上とされるこのハルニレの木は、1905年(つまり深瀬写真館の建つ3年前)に美深町の中心に植えられたものだ。

1973年、美深町教育記念保護樹木に指定された。その翌年にあたる1974年に、昌久さんはこの木の前で撮影している。夜間にストロボを焚いて1人で写した写真もあれば、それこそ他でもない、幼い頃のTさんとその妹と共に写った写真もあることを私は知っていた。

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「記憶の中の私は、いつも人にかこまれていた。血縁の人達、近所の友達、生家の前にあった三本のアカシヤや、国民学校の入り口のニレの巨木までが、今の私には懐かしいというか、なにか人格化されて感じられる」
深瀬昌久「家族」跋文(1991年、IPC)

ハルニレの木の奥には、かつて昌久さんが通った木造の小学校があった。

校舎ははるか昔に取り壊されてしまったが、ハルニレの木はずっと残り続けている。昌久さんはこの木が「人格化されて感じられる」と言い残している。ひとたび木の前に立てば、昔からの友人に再開するかのような気分に浸れたに違いない。

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さて、深瀬写真館の跡地を訪れることができた今、美深でやらなければならないことは残すところ、最後のひとつとなった。長らく行方が分からない状況が続いた、あのアンソニーカメラの在処を突きとめることである。

それは、昌久さんが生まれた1930年頃に深瀬写真館にやってきて以来、深瀬写真館が廃業を迎えた1989年まで、実に60年近く深瀬家が家業の商売道具として愛用し続けたカメラであった。また昌久さんが1971年から1987年にかけて写真館のスタジオを舞台に撮影した作品「家族」で使われたカメラでもあった。

写真集「家族」(1991年、IPC)の跋文で、アンソニーは美深の洋服店のショーウィンドウに飾られていると書かれていたことから、想定される店をこれまで当たったりもしたが、とうとう見つかることはなかった。それが今回、私たちが美深を訪れるとなった途端、新たな証言が浮上したのである。

車を走らせ、事前にTさんが話をつけてくれていた場所へと急ぐ。そして建物に入るなり、それは私たちの視界に入ってきた。

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ああ、アンソニー。アンソニーは生きていた。

物として在り続けていただけでなく、彼は確かに息をしていた。

私にはアンソニーが、今も生きている様な気がしてならなかった。

それほどにそれは、今なお美しさを保ちながら、大切に保管されていた。

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昌久さんが生まれた頃、アンソニーは写真館にやってきた。

そして彼が、深瀬写真館の歴史をフィルムに刻みつけるために使ったアンソニー。それが今、写真に写ったそのままの姿で、私の目の前にあった。隅々まで丁寧に施された彫刻や模様は、古き時代の職人の仕事を感じさせた。

深瀬写真館が取り壊される前までそれをよく見ていたTさん曰く、とてもよく手入れされているとのこと。むしろ現役時代の方がもっと酷い状態だったという。確かにところどころ修復された跡が確かめられたし、少なくとも製造から80以上は経っているのにもかかわらず、ボディは艶々としていた。

現在の持ち主から色々な話を聞かせてもらったのち、現地を後にした。

昌久さんが生まれた頃、深瀬写真館にやってきたそれは、現在も彼の残像を確かめるにはこの上ない物品であるが、「アンソニーはあそこにあるのが一番幸せかもしれないね」と、車内でTさんと話した。それがずっとこの世に在り続けたのだという事実を確かめられただけで、私たちは満足だった。

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昌久さんを故郷の大地に埋めることが叶っただけでなく、町の随所で彼の写真の潜像を見ることができた。そしてアンソニーの無事も確かめることができた。

美深町に着いてわずか1時間足らずのあいだに様々な出来事が目まぐるしく進展した。しかし、なんてことはない。それらは、私たちがやってくる日をずっと待ち続けていただけなのだから。美深は、昌久さんが還ってくることをずっと待っていた。そう思いたい。

没後6年もの間、昌久さんの遺骨はある場所に保管されていた。その事実を知った当初こそ驚いたものだ。しかし今となって、私は思う。彼が彼岸へと旅立つ前に立ち寄っておきたい場所があった、ということなのかもしれないと。御生前は放浪癖のあった彼だから、道草の類は嫌いじゃないはずだ。その放浪もひとつの区切りがついた。だから美深に戻ってきた。

そう考えると、肩の力が少しだけ抜けた気がした。

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納骨の前夜、旭川のホテルでTさんから骨壺を預かった。

翌日、お墓に入れることを考えれば、その晩は昌久さんがこの世にいる最後の晩だった。私はTさんに、最後の晩は私に添い寝させてもらえないかとお願いした。Tさんは、俺はもうこの1ヵ月一緒にいたから最後はトモ君が一緒にいてあげてくれと言って、骨壺の入った桐箱を手渡してくれた。

私はそれを部屋まで持ち帰ると、手を合わせたのち、桐の箱に収められた壺を出し、その蓋を開けることにした。蓋はネジ込み式になっており、一度回さなければ開かない構造になっていた。ちょっとの力ではビクともしない。この6年間、おそらく一度も開けられることがなかったのだろう。当たり前だ。

力を入れると、ガリッといびつな音が鳴って、蓋が動いた。その瞬間、全身を痺れが走り、視界が暗転した。停電でも起きたのだろうか。いや、そうではない。一瞬、私の目が見えなくなったのだ。

怪奇現象に近い体験をしながらもおそるおそる蓋を回し続けると、あっけなく開いた。壺の口までぎっしりと骨が収められていた。昌久さんの亡骸だ。御生前の彼にとうとう会うことができなかった私は、どうしてもその亡骸をこの目で確かめたかった。そして、じかに触れたかった。彼がこの世に存在した痕跡として残された、彼の骨に触れたかった。彼に触れたかった。

掌を差しのばし、そっと骨に触れた。骨の欠片の端は尖っていて、チクチクと掌に突き刺さってくる。その感触をもって、私はとうとう彼に触れることができたのだと実感した。

そのとき触れたのは骨であったが、なんだか彼の掌に触れたような気分に浸っていた。その数時間前、私は旭川で合流したTさんと掌を合わせていた。Tさんの手が大きく見えたので、大きいですねえと言って、つけ合わせたのだった。なぜか、その時の感触が重なって、昌久さんと今、手を合わせているように感じられた。

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「見る自分の触覚と見られる他者の触覚と言うのは、ベロとベロをくっつけるようなもの。ベロは非常に触覚的な要素が強いから——。もう70人くらいやりましたよ。自分のベロと他人のベロをくっつけて写真撮る〈中略〉舌の先の感覚はやっぱり凄いものだと……〈中略〉見る主体は見られる客体でもあるということ。セルフ・タイマーをつけて遠くから撮ると言うことではなくて、手で触れる位置から見るとどうなるか」
対談 深瀬昌久×石内都 セルフ・ポートレート—自分の骨を撮ってみたい。いやあれはただのゴミだ。(『イメージフォーラム』1991年8月号)

昌久さんにとって、写真を撮る行為は、目で見ることよりもむしろ、手で触れることの延長線上にあったのではないか。興味をそそられたものや愛する者を写すことは、無関係の立場から奪い取ることではなく、手の届く範囲で触れて愛でることだったのではないか。彼にとって良い写真とは、写真の先にあるものと触れることができた一瞬の写真だったのではないか。

濁りなき純白の姿になった彼に触れながら、私はシャッターを切った。





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最後まで読んで頂きありがとうございました。写真にまつわる話を書いています。基本的に無料公開としておりますので、楽しんで頂けましたらサポートしていただけると嬉しいです。

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Tomo Kosuga

アート・プロデューサー。深瀬昌久アーカイブス 創設者兼ディレクター。元VICE MEDIA JAPANクリエイティブ・ディレクター。著書に「Masahisa Fukase」(英語版・仏語版:Editions Xavier Barral、日本語版:赤々舎)。アムステルダム在住。

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