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出来なくて楽しい、というお話。

幸いなことなのだけど、ボクは音楽、演奏という仕事で口に糊をしている。

こういう仕事をしているとしばしば
「好きなことを仕事に出来て良いですね」と言われることがある。
全くその通りで、ある意味ではその奇跡とも言っていい状況は殆ど周りの方の
理解と助けによって成立していることなので感謝という言葉しかない。

でも、上の「良いですね」という言葉の真意は未だに計りかねる時があるのも
実際のところで、どこか「好きなことで生きていくのは大変でしょう?」というニュアンスが含まれていることも多い。


これまたよく耳にする話だけど、「好きなことだからこそ仕事にしないほうが良い」という話だってある。それはそう思う。例えばいくら揚げパンやカツカレーが好きだからと言って365日、三食、それを食べ続けてその都度違う感想を述べよ、と課されたら誰だって勘弁して欲しいと思うだろう。
仕事っていうのは常にそういう意味で課せられている部分と自分で作ることのバランスなので、誰からも何も課されない、期待されないというのは仕事として成立しない。これがいわゆる現実というやつだと思う。


どんな仕事だって好きっていう気持ちだけじゃ辛くなる。そしてきっと嫌いになる。だからこその人の言う「好きなことを仕事に出来て良いですね」なんだと思う。

今日もある人とふとその様な話になった時に、自分にとっての音楽やギターって何だろうなぁと改めてその場で振り返って反射的に「好き、というよりもっと執着に近いですね」という言葉が口をついて出た。

もちろん、好き。人と比べることではないけれど、普通の好き、ではないと思う。
すごく好きだし、それは言葉で言えば愛情や愛着だと思うし、偏執的だと思う。

でも、ボクにとっての音楽やギターは憧れや自己実現の投影というよりは
「不自由な自分」を突きつけられるからこその、その先に薄っすら見える「自由でキラキラした世界」への通行証の様な存在なのかなと考えることがある。


自分自身という人間を振り返ると物凄く飽き性で、一時期ウワーっとハマったと思ったら、ある程度できる様になった時点でパタッとやめちゃう、ということの繰り返しだった。

ところが、ギターや音楽はいつまで経っても分かったような気にもならないし、
出来る様になった気もしない。これだけやってきても、この程度か、こんなことも分からないのか、と時には物凄く悲しい気持ちになるときがある。

でも、そこには一つ非常に大きい喜びが隠されていて、「分からなかったことが分かるようになる」、「出来なかったことができるようになる」、「伝えられなかったことが伝えられるようになる」という物凄く人間らしい営みと喜びがくっついている。

思考と言語と音楽、演奏がシームレスに繋がったらどんなに良いだろう、と思う。
そこにfrom不自由to自由という道のりが確固として存在するからボクは音楽やギターが好きなんだと思う。

そう、ギターや音楽そのものだけが「好き」ということじゃなくて、
もちろんそのものも好きだけど、加えてギターや音楽が見せてくれる何かが、
そして自分に思い知らせてくれる何かが好きなんだと思う。

伝えていきたいのもきっとその部分と、
「音楽があったほうが絶対良いぜ」っていう部分。
伝える、と言ってもそれは言語化出来ないことが沢山あるのだけど、
音楽でそういうとこをシェア出来ていければ、仕事としても意義のあることなんだと思う。


出来ないことって楽しいこと。

出来ない、という現実にぶつかってボクらははじめて考え始める。
どうやれば出来るだろう、と考えた時に脳や身体を駆け巡るものは喜びとか
楽しいといった成分なんだと思う。

ともすれば「出来ない」ということは悪いことだったり無駄なことのように
扱われることが多いと思うし、何かに対して出来ないから嫌い、ということも多いと思うけど、
本当は「出来てしまうこと」や「出来た気になっちゃったもの」こそ
もしかしたら物凄くツマンナイことなのかもしれない。

生きていく、ということは、その喜びの根っこは、
出来なかったことが出来るようになること、
分からなかったことが分かるようになること、
伝えられなかったことが伝えられるようになること、
と結構くっついてるんじゃないかな。

出来ないこと、って本当はすごく楽しいこと。
明日はもう少し出来るようになるはずなんだもの。


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