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私は私が私であった証を残したいのか?

2023年11月17日、アーティストのKANの訃報が入ってきた。
闘病していたことも知っていたし、最近ラジオに復活していたことも知っていた。
直近では、サブスク始めたって聞いて、すごく嬉しかった。
きっと近いうちに完全復活するだろうと思っていた矢先の訃報。
会社で知って途方に暮れた。
家に帰ってきて、歌いながら泣いた。

ファンクラブに入っているわけでもないし、CDも全て持ってるとか、楽曲全部知ってるわけでもない。
でも、とっても大好きで、ふと曲を聞きたくなる。
歌いたくなる。
大好きなアーティスト。
この世からいなくなる寂しさを、初めて体感している。

とはいえ、KANが残した楽曲は今もあるわけで。
追悼の意を込めて、持ってるCDを片っ端から聞いている。
この世からいなくなってしまっても、KANの歌声は残っている。
いないけど、いる。
不思議な感覚。

これをなぜか、私の場合としてふと考えてみた。

私が死んだら何か残るのか?
私が死んだあとも何かを残したいのか?

何も残らないし、残したくない。
これが、今の私の答えだ。

だとすると、今私のまわりにある「モノ」は、私が存在している時にはそれなりの価値があるけれど、存在しなくなった途端に価値のないものになるのではないか?と考えた。
モノの存在が、私の存在を表している。
そんな感じ。

また、残してしまった(という表現をあえて使うが)モノは、他人にはどんな価値として残るかわからない。
でも少なくとも家族に対しては、価値がなさすぎて、もしくは思い入れが強すぎて、片付けることが困難になるのではないか。
(それに、「何でこんなもん残した?」って思われるのも、私が死んだあとであっても嫌だと私は強く思っている。)

それって迷惑極まりない話で。
私が私の存在を残さなくていいと思っているにもかかわらず、私が私であった証を残してこの世を去る…矛盾でしかない。

それを回避する方法はふたつ。

1.生きてるうちから、余計なモノは残さない。モノに想いを込めず、私の心に残す。
2.どうしても伝えたくて残したいモノがあるならば、少しの量で1箇所にまとめる。

いつ死ぬかなんてわからないし、徐々に弱っていった時に、気づいたら動けなくなっていて、片付けできないとか、片付けする気力がない、なんてこともあるかもしれない。

だからこそ、動ける今、ある程度整理をして、モノとしての存在を減らしておく必要があるのではないか。

ということを伝えていけば、理解してくれる人はいるのだろうか…。

共感してくれる人がいたらいいなと思いながら、今日も明日も明後日も、モノと向き合い、片付けしていこう。

ちなみに。
カバー写真はうちにあるKANのCD。
このアルバム「TOKYOMAN」の「Moon」という曲が大好きです♡

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