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家族の抱擁を求めるグリーンたち

”硬直的な公的施設の対応にイラっとする”というお題を、ケン・ウィルバーの「インテグラル理論」をつかって解きほぐすという、公開セッションの動画を撮ったのが、10日ほど前。

その後『ティール組織』の冒頭にある、アンバーからオレンジを経てグリーンに至る各パラダイムの特徴を読み返す中で、ふたつのことに気がついた。


ひとつめは「アンバー」な家族システムへの苛立ちの投影が、わたしの中で起こっていたということ。

ふたつめは日本で「グリーン」を求める、あるいは自らを「グリーン」だと思いたい人は、実は「家族」を求めているのではないかということだ。

「アンバー」な家族システムへの苛立ち

アンバーとは、自らが属する集団に帰属し、外の世界から切り離された充足を求める意識の段階。
そこでは自分たちとは異質な外部のモノは、敵となる。

封建的な家族や地域、会社に所属し、そこだけを世界と感じるひとが、無意識に陥りがちなポジションだ。

公的施設の彼らにとり、わたしは異質な「外部」で、同時に対応せざるを得ない「市民」なのだと考えられる。そしてそれは、家族の中でわたしが感じていた「異質なものとみなされる感覚」と重なっていく。

(そんなわたしの子供の頃のファンタジーは、家族がみんな死んでしまうことへの密かな憧れと、それを感じていることへの恐怖や罪悪感だった。
小公女とか、キャンディのような物語には、そういう側面があるんじゃないだろうか)

家族でありながら理解しえないところがあるという、疎外感に少しだけ傷ついていたわたしは、大人になってからも「異質なものとみなされる感覚」を感じるたびに、その傷が疼くのだろう。


それが自覚できたのは、大きな収穫だった。

組織論に特化している『ティール組織』

ある種のコミュニティは、わたしには依存の構造にしか思えないけれど、それがとても響くらしい人たちもいる。帰属欲求と承認欲求の満たしあいが、そこでは怒っているように見える。そのことについて、ずっと疑問に思っていた。

かれらはとても理知的で、社会的な地位も高く見える。
認知レベルは、グリーンかもしれない。
でもなぜそのような人たちが、そのような集団に惹きつけられるのだろう、と。

そのひとつの角度からの仮説が「ひとはそこに、家族を見ているから」だ。


参照している『ティール組織』は、あくまでも組織論で、そこにはもととなったインテグラル理論の発達段階(レベル)の考え方はあるけれど、能力の多様性(ライン)の考え方はない。

組織として機能するのに必要な能力に「限定した発達段階」論だから、この書籍としての問題はない。

ただ、それを読む人の頭から、人には組織に関連する能力以外にも多様な能力が存在しているという認識が抜け落ちてしまい、ここで書かれた段階=色こそがその人個人の達成した段階である、という誤認を招く可能性は危惧している。

「家族」を求めているグリーンたちの、思わぬ陥穽


さて、話を戻すと、自集団に忠誠を求める「アンバー」、そしてひとを機械の一部、交換可能な部品のようにみなす「オレンジ」の段階を超えると、集団は全てを等価に扱い、ひとを家族と見なす「グリーン」のレベルに到達する。(写真は、『ティール組織』の口絵より)

閉鎖的で父権的なアンバーから、親密さを失ったオレンジを経て、開放的で母性的なグリーンの世界。
アンバーやオレンジな大多数の中で得られなかった、あたたかな家族の抱擁。それはたしかに、素晴らしき楽園にも見える。

しかしそこには、ひとつの陥穽がある。

全ての構成員が、成熟したグリーンならば問題はないだろう。

でもどんな集団にも、グリーンの皮を被ったオレンジやアンバーは存在しうるし、もっと言えば、社会人としてはグリーンでも、プライベートではアンバーやオレンジという、そんな例はどこにでもある。

もしかしたら、集団のトップが、アンバーやオレンジの自分に、グリーンの化粧を施しているだけってこともありうるほど。

思いがけぬ「グリーン」の弱点


『ティール組織』でも述べられている、グリーンの弱点はこういうことだ。

"だれかがグリーンパラダイムの寛容性を悪用してとんでもないアイデアを提案してきたときにも、平等に扱わなければならなくなってしまう。グリーンが兄弟を愛するような気持ちでなにかを差し出しても、自己中心的なレッドからはもちろん、確実さを求めるアンバーからも、グリーンを理想主義と考え軽蔑するオレンジからも何かが返ってくることはほとんどない。"(p55)

もちろん「悪用して」そうするばかりではなく、全くの善意で、自らがグリーンだと思い奉仕の心で行うことが、結果的にはとんでもない提案となることもあるだろう。(そんな事例を、いくつも見かけた)

そうなった時に、グリーンたちは疲弊し、理想郷は崩壊の危機にさらされる。


ひとつめの、アンバーなシステムへの苛立ちと、ふたつめのグリーンへの憧れへの違和感。

このふたつを重ねると、なんとなく見えるのは「ほしかった家族の代用を求めている」という姿。

彼らはオレンジに適応できたからこそ、かつての苦しみを癒すために、グリーンの家族性に憧れるのかな……と。

家族の抱擁を求めるグリーンたち。

これはそんな、ひとつの仮説。


おいしいごはんと、瞑想のようなもの思いから浮かぶ言葉と、日々のささやかなできごと。そんな生活の切れ端と、たまにディープに心のことを、思いつくままにつづります。 お仕事として、ライティングや講座の企画・構成、こころとからだのセッションもやってるよ♪