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「なんか楽しいことないかなぁ」は、世界を変えないから。

気分の上がる音楽を聴いても、降り積もる雪のしんしん、という音に耳を傾けても、「もうすぐ春が来るのよ」という知らせの風にその身を晒しても、全然前に進む気になれない。2月、平日の午後。

もう冬には飽き飽きしてしまった。だからと言って春を全身全霊で待つみたいな、そんな前向きな気分でもない。強いて言えば、寒さがやわらいでほしい。そうしたら、もう少し楽に呼吸ができそうなのに、体にへばりついて離れない冬の気配に、肩こりしすぎて嫌気がさす。

今すぐどこかに消えられたらいいのに。そう、たとえば今すぐ電車に乗って、バスを乗り継いで、その先で船になんか乗っちゃって、瀬戸内海の小さな島の4室しかないホテルのロビー。しんとした静けさと、凛とした空気の心地よさ。

夕暮れをとうに過ぎ、真っ暗になった冬の空、けれど瀬戸内海のそれは、東京のそれよりもずっと肌触り柔らかく。

遅い時間にチェックインしたその先で、私よりも数秒先に「パタン」と音を立てて扉を閉めた、濃いグレーのウールのコートを着た165センチくらいの少し小柄な男性。の後ろ姿が、長い一瞬みたいにまぶたに焼き付いて離れない。普段は身長の高い男性が好きだ、けれど今日だけはどうしてだか気になって。

翌朝、知らない天井の下で目を覚ます。私の部屋よりもずっとふわりと暖かく体を包んでくれる優しいベッド。このまま惰眠を貪ってしまいたい欲を、どうにか熱いシャワーで静かに蹴り上げ、そして昨夜、出発間際に駆け込んだ最寄りのコンビニでつかむように購入した、いつもと違うアイシャドウを薄く美しく、塗りあげて。薄紫のまぶたと、いつものマスカラ、部屋に転がっていたピンクのチーク。リップは少し濃いめの赤を。オフィスではできないメイクを、憧れていたその色合いを、私は「花のようだ」と思いながら鏡ごしに見る。いつだって自然の色合いが、一番綺麗。

控えめな甘さを纏って、下ろしたての靴をここぞと履く。クローゼットの奥にしまっていた、買っただけでほぼ履いたことのないヒール。「似合わない」と決めつけて、けれど勢いで買った2万円が口惜しくて、捨てることができなかったそれ。スーツケースに詰め込んで、1着だけ持っている白いカシミアのセーター、そでをすっと通して、髪は後ろで結い上げて。

朝食がいただける、テラス席に出る。瀬戸内海の風が結い上げた髪を撫ぜる。誰かに撫でられたかった髪。ふと目が合う。昨夜の濃いグレーのウールのコートの男性。コーヒーを飲む手に目が止まる。視線は上がって、遠くを見つめる横顔をまた見つめる。彼もこちらを見る。でも、別に気にしていなかった風を装って、また二人とも、それぞれの世界に戻る。

そんなことを数日繰り返したある日、やっぱり私たちはテラス席の風に吹かれながら、もうすぐ春が来ることについて、感想を述べながら話し合う。一言、二言、ことばは冬に揺れて、はるかかなたに消え去ってゆく。けれど一度音になった想いは風に乗って、上昇気流で空から世界へ、そしてまた星になって夜に肩へと戻って来る。世界は自分が、口に出した言葉でできる。

そんな風に、日々を過ごしているうちに、私たちは互いに帰るべき場所へと帰るべき日がやって来る。きっと帰路につく日も偶然一緒なのだ、こんな出会いは。そして私たちは、冬が本当に終わりそうな3月の、あの瀬戸内海の柔らかい風が吹いた日みたいな、テラス席のコーヒーの香りが戻ってきそうな日に、どうしてだかまた再会するのだ。きっとそれは、私が今暮らす東京で。

***

遠くから、音楽が聴こえる。「お待たせしました」とその人は言う。「またね」と隣の人が挨拶を交わす。外はもう真っ暗だ。まるであの日、瀬戸内海に到着した日の夜のよう。

はっと意識と視線を「今」に戻す。世田谷のなんてことない、いつもの喫茶店。温かなソイラテはもうすっかり冷えてしまって、私はかつてふわふわしていた薄茶色と白のそれを、唇でなぞろうとしてやめる。そして隣のグラスを手にとって、あの日のテラスを思い出すように水を飲むのだ。

外の冬は、まだ続いていた。そしてやっぱりもう少し、続いてしまうようだった。だってまだ、2月は始まったばかりだ。日本の冬は長い。

小さな島で風に吹かれて、消えちゃいたいその先で、小さな恋の種を見つけて。水をやって、芽吹いたらまた肥料をやって、日に当てて。少しずつすこしずつ、出会いを育てる。春がきたら目を覚ます。きっとそれはいつか小さいけれど可憐で切ないくらい愛おしい花を咲かせて、薄紫とピンクと、濃い赤の何かをもたらして。

そんなベタな展開でいいから、暮らしに些細な幸せをもたらしてくれて、それでいて人生を劇的に変えてくれちゃいそうな「何か」を、私は、私たちは、ずっとずっと待っている。たとえばあの後もう一度ホテルに戻ってしまうような、なんだったらいつかは瀬戸内海に住んじゃうような、その先で素敵なカフェを始めてしまったり、宿だとか、モノづくりだとか。それがまたきっと誰かの目に止まって。「私が始めたけれど、私の力の及ばないどこかの大きな何かが、運命を導いてくれるような」。

そんな夢みたいなことは、あるわけないのだ。ううん、違う。正確に言うと、「始めなければ、ありえるはずがない」。逆に言えば、始めてみたなら、可能性は小さくだけれども、確実に生まれていって。

いつもと同じ通勤経路の、まだ家に帰りたくないからって、入ったことのある喫茶店で、いつも選ぶお気に入りのホットのソイラテを頼んでいるような私では、明日もきっと同じ夜。

そうじゃなくて、次の週末に、金曜日の夜に知らない電車にさらりと乗って、行けるところまで行ってみたり、土曜日と日曜日を、私のことを誰も知らない街で過ごしてみたり。船に乗って海を越えて、例えば本当に瀬戸内海に行っちゃうのだっていいだろうし、伊豆大島でも、東京の離島、例えば新島とか神津島でも、別に島じゃなくたって、近所の知らないお店でも、あなたとの新しい一言二言の言葉の交換でも。

1ミリ、2ミリ、「いつもの私」をはみ出してみる。毎日続けていたら、いつかきっと、あのまた濃いグレーのウールのコートの、後ろ姿、瀬戸内海の風、パタン、と扉が閉まる、けれど追いかけたい背中。走り出したい衝動、もう一度笑いたい、冬だって乗り切れる、楽しめる気持ちに、出会えるような。

毎日、鬱々としながら「なんか楽しいことはないかなぁ」なんて思っても、日々は変わってくれない。必要なのは、大きすぎる変化ではなくて。「ちょっとそこまで」、新しくその一歩を踏み出して行き先を変えてみる、少しだけの「覗く勇気」。

次の週末は、瀬戸内海へとでも、本当に行ってみようか。

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伊佐 知美

世界一周の旅とことば。旅と写真と文章を愛してる。2016年4月から地球を放浪しています。

あたらしい文章たち

2019年に書き始めるもの。小説です。
3つ のマガジンに含まれています

コメント6件

you、行っちゃいなよ♪
感じた瞬間、行っちゃいなよ♪
素敵ですね。引き込まれました。
感想、ありがとうございます😊本当にとても嬉しいです
1ミリ、2ミリ、「いつもの私」をはみ出してみる。すごく素敵な文章でした。このnoteに出会えてよかったです。
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