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自由は美しくて、ガラパゴス【新潟⇔東京⇔沖縄】

信濃川の土手に出るために、混み合った階段をのぼってゆく。一段、二段、そして花火。バンっともドンッともつかない、体の奥底を震え上がらせるような迫力の音は、小さなころから聞き続けているとはいえ、慣れるものではない。

「正直、驚いた」と笑い合いながら、三段、四段と階段をのぼってゆく。土手の一番上にでる。数万ともいわれる観客が、視界いっぱいにぶわっと広がる。立っている。座っている。談笑をしている。暮れゆく空を見つめながら、ビールを飲む。ひと、ひと、ひと……。

「長岡大花火大会にお越しいただき、まことにありがとうございます」威勢の良い、けれど上品なアナウンスが夏の空いっぱいに響き始める。昔から変わらないウグイス嬢。1年間、ずっとこれを待っていた。

ことしも始まるのだ。慰霊と震災復興の、花火の打ち上げ。

打ち上げ場所は、ちょっと走って、手を伸ばせば届きそうなくらい近くにあるように感じられた。前をじっと見つめるというよりも、頭上を見上げるような角度で楽しむ2時間超の花火のシャワー。

いっそ寝転んでしまった方が気持ちがよさそうだ。実際に寝ながら空を見上げる。これが当たり前の中で育ったから、そういえば花火師になりたいと想った瞬間も人生の中にはあった気がする。と思い出す2017、31の夏。

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本当に来るとは思っていなかった。「6時間かけて車でいく」といわれたときは、きっと冗談だろうと思っていた。

すごいな、たくさんの距離を身軽に移動できるという特性は、わたしが愛するひとつだ。県境だって国だって、まるでかき氷の味をなににするか迷うふりをするように、気軽にすぐに、気分で越えることを決められるようなひとがいい。

始まってしまったら、きっとすぐに終わってしまうのだろう。14のときも、18のときも、25も、30の夏もそうだった。知っているから愛しい。

「写真に撮ろう」と残す行為は尊いけれど切ない。「残さなければ」と想った瞬間、それはもう「変わってしまうかもしれない」という哀愁を含んでいるように感じるから。

私がカメラを愛するのは、その刹那を内包しているからだろうか。

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連れていきたい場所がある、と誘ったさきで、「猫を拾いに」という川上弘美さんの本に出会う。

ひとに何かを見つけてもらおうと連れ出した先なのに、まんまと本に惹かれる私は、いつだって格好のカモである。さすが「はせがわブックス」の長谷川さんの選書だ、と思いながら、新潟産の「ぽんしゅグリア」を母のおみやげ用にと手にとったりして。

こうやってまた私も少しずつ、モノを増やしてゆくのだろうか。旅と日常の境目は、もう見えない。

気づけば長岡を出て、フジロックで盛り上がったであろう越後湯沢を通り過ぎる。東京へ行って、羽田へ向かって、そしてもっと南へ向かう。沖縄へいくのは久しぶりだった。あの島は、私が一度結婚をしたあとに、はじめて片道切符で一人旅をした場所だった。

なんとなくだけど、バツを持ったひとに「島の旅」というのはとてもぴったり来る気がしていた。最近読んだ本「夏を喪くす」の影響だろうか。東京ももちろん似合うのだけれど、かなしいコンクリートに生き埋めにされてしまうようで。大好きだったはずなのに、私はすこし苦しいなと感じるようになっていた。

島は、四方八方、ゆけば海にぶつかるというのがよい。背伸びをしたら、台湾くらいなら眺められるのではないだろうか。はたして無理かしらん。


月は、満月に向かっているようだった。いつか私も、そこへゆけるだろうか、とたまに思う。「新潟文理って、県外出身者もけっこういるんだね」と隣の席にすわるひとがおもむろに口を開く。手には甲子園について詳しく書いてある雑誌が乗っていた。

「そうなんだ」と素っ気ない返事をしながら、「猫を拾いに」の続きを目で追う。頭は沖縄でのイベント登壇の内容を考えているから、なんだか落ち着かない。思考も指もからだも、今日もやっぱりちょっと多動気味なのだろう。


素っ気ない返事、かぁ、とひとり想う。世界でひとりだけ、尻尾をふるように「今日はあれがあってね、これも見てね」と伝えたいひとがいるけれど、そのひとは世界でいちばん私に素っ気ない。

猫のように甘ったれたい小さな気持ちを、今日も握りつぶしちゃうようにまるめながら、私はまぁいっか、と思いながらフライトに向かう。刹那、すこしだけせつない気がした。

……とまぁ、8月あたまの、とある日の私の日記を綴ったとしたら、こんな感じになる。いったい何の話を聞かされちゃったんでしょうね? 自由はうつくしくて、ガラパゴスだなと最近よく思っている。そして私は久しぶりに沖縄の土を踏む。


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