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言霊があるとしたら、音の葉に4音を乗せて

あの頃見ていたみなとみらいよりも、少しだけ空が狭くなったなぁ、と私は思う。吹く風の気持ちよさは変わらないのに、通り抜ける道幅が狭くなっちゃうなんて。つまんない。

何度もなんども繰り返し話してきたことばたち。「どうして書き仕事をはじめたんですか」なんて、用意していた答えばかり。言いすぎてそれが本当のことみたいになってきちゃったよ。

「家がないんです」なんて、ホントかウソかで言ったらウソで、厳密にいえば「実家がある」。日本人だからどこかに住民票登録しなくてはいけないし、税金だってどこかの住所に紐付いて支払わなければならない。郵便物を送る場所だってひつようだし、なんかそもそも「まじで住所ない」とかほんとあやしい。

正確にいえば「ひとりの空間を持っていない」。「30リットルのスーツケースひとつで、数ヶ月暮らせる特技を持ってる女」という事実。

言霊というのは本当にあると思っていて、それは「好きかもしれない」とつぶやいた瞬間、「好き」に変わってしまうのととても似ている。というか、それではないか。

こころで思っているだけならば、この世界に気持ちが溶け出すことはない。けれどことばにした瞬間、その想いは質量と湿度をもって、この世界に音となってあらわれる。「好きです」たったその4音が、風に乗って、大海原へ。もう戻せない。

たとえばだけど、「こんな人生いやよ」と言ったら、耳がそれを聴いてしまって「そうかこんな人生は」と思ってしまう。思ってしまったら、もう好きじゃなかった頃には戻れないように、私たちは。いやなのだと信じてしまう。

ならばもしかしたら、「私たちはしあわせになれる」と唱えていれば、私たちはいつかかならずしあわせになれるのではないかって、さっき思った。

よいことを繰り返し音にして、この世界に放とう。かなしい響きをともなうことばを多く紡いでしまうより、きっと私を、誰かを、いつかどこかで、救ってくれる。

「口にすること」の重さと責任を、さいきんまた少しだけ感じてしまうようになる。言霊は、私を知らないうちに縛ってしまう。縛られたらしばらくそこから、抜け出せない。信じてしまうから。思い込んでしまうから。

私は縛られたくない。ことばにも、なにごとにも。そして縛りたくも、ない。

「明日もいい日になりますように」笑顔でいえば、たぶんきっと、明日はいい日。

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