思い描いているだけじゃ「いつか」なんて一生来ない
大抵の街がそうであるように、ヤンゴンの街もまた、雨が降るとその表情を変えた。
明るく晴れ渡った空は暗く濁っていたし、雨がまた降るんだか降らないんだか、雲は煮え切らない彼氏彼女みたいにどっちつかずだったし、人々はどこか怒っているかのように見えた。
でもそれは、雨が降った街を少し怖いなと思って見つめている、私のせいだったんだと思う。何が怖いって、道がぬかるんでいて、屋根からポタポタと雫がどこからともなく垂れてきて、そうだな、何が怖かったんだろう。でも、怖かった。
雨が止んだからなのか、通りを歩くひとが増えてきた気がしていた。目の前を通り過ぎる、ひと、ひと、ひと、車、ひと。
肌の色が黒かったり、黒かったり、黒かったり。ときたま白。私の肌の色が、一番どっちつかずだった。
一歩一歩踏みしめるごとに、道がなくなる。ひと、ひと、ひと。すれ違うすべてのひとと、このまま人生を重ねることなく。ただ通り過ぎていくだけ。
そんな街を歩いていると、いつもみたいにまたあの考えが頭をよぎる。
「今この場で、ナイフをさっと出されて刺されたら、きっと私死ぬんだ」
そう、別に病んでるわけじゃない。何かあったわけじゃない。特に暗い気持ちではなくて、結構私は、定期的にこの考えを抱いて生きてる。
刃渡り10センチもあれば十分だろうか。さっと、そう。さっと刺されただけで、私はきっと死んでしまうのだろう。(深いつっこみはなしでお願いしたい……)
私はいつか死ぬんだ、と思って生きている。簡単に。
それはきっと、16歳のときに、私の彼氏の大切な友達が、さっきまでこの部屋にいたのに、ちょっと出かけてくると言ったまま、バイクの事故で帰らぬ人になった経験が大きい。
あぁそうか、ひとは死ぬんだ、と思っている。
クアラルンプールを旅した時に、なおよさんが言っていた。「どうせ100年後は、ここにいる私たちみんなが、いないんだから」と。「だから好きなことをしなさい、細かいことに気を取られていないで」という意味合いの言葉だったと思うのだけれど、
なぜか私は定期的に抱くあの想いと、重ねて捉える。
「いつか旅をしたい」
「定年退職したら、いつか」
「この夢をいつか」
いつかなんて、描いてるだけじゃ一生こない。
だって明日死ぬかもしれないんだもの。今日かもしれない。
「いつか」なんて、掴もうとしなければ一生こない。
60歳のときの私と、29歳の私はきっと違う。体力? 美貌? 知力? 経験? そんなのくそくらえだ。
60歳まで元気で生きていられる保証はどこにもない。ならばなぜ? なぜ60歳の定年後に、世界を巡ろうなんて待てる?
生きているということは、たぶん素晴らしいことなんだと、頭の悪い私でも思っている。
いつか、が描いているだけじゃこないなら、少しだけでも、近付く努力をしたいじゃない。
ミャンマー・バガンの通信速度があまり早くなくて、とてもキレイな遺跡の写真たちをアップできそうもなかったから、そうね、雨の日に街を歩いてぼんやりと思ったことを、テキストだけで書けることを、少し書いてみようと思ったの。
暗いかしら。暗いわね。でも私は、その暗そうな話を最大限明るく捉えて、楽しんで生きられたら幸せだろうと思っている。
いつもそう。歩いているときが、一番文字が頭に出てくる。街を歩いていたら、noteの1本、2本は書き終わってしまうくらい。
ひとりで歩く街は、ポエミーだわ。
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