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何かの風景になれればいいのかもしれないと思った。【タイ・チェンマイ】

随分遠くへ来たものだ、とはあまり思わない。むしろ今日、いますぐに思い立ってWi-Fiをつないで、スカイスキャナーかANAのサイトで成田か羽田行きの航空券を予約すれば、早ければ今日の夜、遅くても明日には、家に着いて旦那に会って、あのふかふかの(多分)家のベッドで眠れると思うことが、私の心の安全につながっていると感じたりするくらいで。

気がつけば旅が始まって3週間が過ぎようとしていて、あれ、私はそんなに時間を過ごしたかしらと思ったり、思わなかったりする。

ここは間違いなく、行きたいなぁ、行きたいなぁと思っていたタイ・チェンマイの街である。

なんで行きたいなぁと思ったのかは全然分からない。タイっていう国は、多くのひとがそう言うように、私にとってもとても魅力的な土地。一度旅行した国には二度、三度はあんまり行きたくないなぁ、となぜか傲慢に言う私が、振り返れば3年連続で来てしまっている、みたいな謎の国である。

バンコクは、都会で美しくて雑多でワット・アルンがキレイで、その昔読んだ三島由紀夫の『暁の寺 豊饒の海(第三部)』舞台になったりしていたものだから、私も夕焼け見ちゃうんだわ、みたいに思ってひとりで2年前に楽しんだりしていた。

プーケットは、リゾートに行きたいという旦那のリクエストにお応えして、昨年の夏に2人で訪れた。奮発してスイートみたいな部屋をとったものの、なぜか到着したらその倍はする丘の上の単独ヴィラに案内され、天蓋つきのベッドでまるでハネムーナーのように眠ったのは、記憶に新しい。思い出すだけでまたあのリゾートでタイカレーなんぞを食べて、「何もしない贅沢」みたいな輩を満喫したくなる。完全にハネムーンだと思われて無料アップグレードされたのだろう。またあの技を使うには、どうすればいいのだろう。

もう、タイには来ないのかもしれない、しばらく。と思っていた。

でも、世界地図を広げてさぁどこへ行こう、と先月ひとりで思案していたとき、「あぁ、チェンマイに行きたいな」と思った。

さらりと家で、格安航空券を調べてみたら、東南アジア各国の都市への乗継便が多く出ているバンコクからチェンマイへは、飛行機で2600円と検索結果が出ていた。

行こう、と思った。

バリのウブドの景色を見た時も思ったのだけれど、行きたい場所、見たいなと思う場所があったら、きっとすぐにでも、いやすぐにとは言わないから、その気持ちの灯りが消えてしまわないうちに、その土地を訪れたほうがいい。ひとに会いたい、という気持ちも一緒だ。モノゴトにはすべてタイミングというものがあって、同じ必然性を伴っていたとしても、タイミングを間違えばまったく意味合いの違うものになる。

すぐに行動すればいいというものではない。けれど、ずっと行動せずにいればいいというものでもない。何か感じるものがあったとすれば、糸を手繰り寄せるふりでもいい、調べるだけで何もしなくてもいい、ひとに少し聞くだけでもいい。でも、「今いる場所」から1ミリでも動く努力をしてみると、運が良ければベルトコンベアーとかエスカレーターみたいなものに偶然乗れて、「あれ? ここは私が来たかった場所なんじゃなかったかしら」みたいなことが人生には起こりうる。

えっと、いつものことだけど、何の話だっけ。取材原稿以外の文章を書くのが久しぶりだから、頭が思うよりも先に指が動くみたいな感じで、とりあえずいまはここから2〜3メートル先まで文章を続けられそうなくらい、目の前に文字が飛び交っている。

ひとは、「呼ばれる」ことがあるのだろうと思う。

「呼ばれる」ということばが少しスピリチュアルすぎるのであれば、「行ったほうがいい」とか「行くべき」みたいになると思うのだけれど、私は直感として「呼ばれる」ということばを使いたいなって思った。

ウブドで月に照らされる木々を見て、ぞくっとした。

チェンマイで風に揺れる葉っぱと向こう側に見える山を見て、あぁいいなと思った。

きっとひとも、そう。

私はまだチェンマイでは誰にも取材していないけれど、昨日ナイト・マーケットをひとりで歩いている時に、「あぁ人生って、何かの風景になれればいいんだな」と思った。

緑の多い街に惹かれるのは、なぜなんだろう。次に行くラオスもきっと、緑の多い街だろう。

12月にひとりでハワイに行った時に、10日間くらいずーーっと海と夕暮れと朝焼けを見て過ごしていたから、いまはそれ以上にキレイな海でないと、あまり心が反応しないのかもしれない。海は今お腹いっぱいだ。贅沢な話だ。

そう、10日。10日という日数は、私の中で少しずつ固まりつつある数字である。クアラルンプールも、バリも、そしていまいるチェンマイも10日目に次の国に発つ飛行機に乗っている。なぜ10日間なのかは分からない。今まで、三井住友、講談社という企業に属して、ふつうであれば月〜金の5日間MAXで休暇をとって、前後の土日を必死でくっつけて、はい9日間の長期休暇できあがり! みたいなことを続けてきたから、それに対する私の小さな抵抗が心のどこかにあったりするのではないかと思ったりもした。

でもなんか、違うみたいだな。新しい街に着いて、3〜4日は中心部のホテルをとって、街をひとりで歩いたり、誰とも話さずにただひたすら原稿を書いて、街を歩いて、ごはんを食べて、買い物をして、お昼寝をして、日本と通信して仕事を進めて。という時間を過ごしている。

そのあとの4〜5日は、街の郊外の家をAirbnbか何かでとって、すこしローカルのひとの暮らしを見たり、現地で取材をしたり、今度は歩きじゃなくて自転車かバイクを借りて、ひとりで街のそとを回ってみたりする。

ちなみに私は旅先で自力で移動する手段を確保するのが好きだ。歩いた街が、今までより早いスピードで通り過ぎていく様を見るのは、なんとも言えず心地よい。事故らないようにするだけである。まじで心配である。全部の国でこれをやったら、私はひとりで事故って死ぬというか怪我するんじゃないかと本気で思うし、たぶん家族も会社もそれに賛同するであろうから、ここは必要最小限にとどめて、多少お金がかかってもタクシーを使いたい。

でもほら、安いんだもん。バリとか、1日500円でバイク借りられたのよ。ふふ

とにかく今は、10日間という期間が心地いい。本当はひとつの国にとどまりたいのだけれど、それを超えて「たくさんの街に行きたい」「見たことがないものを見たい」という気持ちが勝る。

今までは「せっかく海外にきたのだから」と予定を詰め込んでいたけれど、今回はなぜか「また来ればいい」と思える。

日々日々、お金がなくなっていく様子を見るのは、結構心が痛むものである。でも、25日になったらきっとしゃちょうが私に給料を振り込んでくれるはずだから、それを心待ちにして、今はまだしばらく旅の中に沈んで、毎日流れる空気を吸って、日が沈んだり、上ったりする様子を眺めていられればいいなと思う。



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