見出し画像

二周目のスタンプラリー、そこに意味は果たしてあるか否か?【ラオス・ルアンパバーン】

「君のことを覚えている」と今たしかにその人は言った、と思った。聞き間違いではなさそうだった。東南アジアはラオスという国、古都ルアンパバーンのその街角。”phone”と名乗る男の人が、立ち止まって振り返り、声をかけて笑みを寄越す。

新手でもなんでもない、掃いて捨てておまけに吐けるほどにはありふれている、話しかけるための常套文句なのだと思う。ふわり笑顔だけ残して、くるり踵返してメコン川沿いのホテルまで戻ろう、と足に命令を出しかける。けれどその足先向くより彼は早く言葉紡ぐ。「去年はふたりだったのに、今年はひとりなの。同じホテルに泊まっている。覚えてる」と。

一瞬で、一年とすこしの時が巻き戻る。吸い込まれる。思い出す。色鮮やかな、記憶が私たちを呼び戻す。

たしかにあの日、私は同じ街角であなたに会った、かもしれない。何度も何度も、通り過ぎた。話をした。「メコン川のボートに乗らない」「タクシーは要らないの」よくある旅人と現地在住者の他愛ない会話。

私は覚えていないとしても、phoneがじっと待ち続けていたそのボートとタクシー乗り場の前を。そうだ、私は、私たちは、何度も何度も行き交って。(なぜなら彼が定位置と決めている場所は、私たちのホテルの目の前だったから)

「同じ街へまた行こう」だなんて、昨年までは思いつきもしなかった。なにせ、新しいことが好きなのだ。空港に着いて、街にたどり着いて、宿を探して、さてここから何をしよう、と荷物を置いて名実ともに軽くなるあの瞬間の。

自由と高揚と消えない不安。クエスト感だ、と最近はよく思う。日本は日本語が通じすぎていけない。通じない常識を超えた先に、何が待っているだろうと思いたいらしいただの”癖"。

酔狂、でしかない。2年続けてルアンパバーンにやってくる女なぞ。これはただの酔狂だ。気まぐれで、自分本位で、それでいて楽しそうだ、と昨日私はなんとなく思ったのだった。

この街は世界遺産に指定されている。日の出とともにはじまる数百人の僧の托鉢の列は、たとえそれが遠い昔からもはや観光の色合いを強くしてしまっただけのものだとしても、けれどなんだ、美しい営みであるには違いなかった。

濃い緑に空の青、そしてまるで「昨日まで100日間土砂崩れが続いたんです」とでも言い訳したそうな、赤茶色のメコン川。

緑に青に赤茶色。その合間に思い出したように顔を出す、金色や白に光るお寺の姿、フランスの面影残す建物、なんと言ったらいいか分からないけれど、「ファッショナブル」だなんて言葉からは遠いように感じる、ラオスの人々の気楽な身なり。

昨年は、タイ・チェンマイからやってきた。タイ・バンコクを経て訪れたチェンマイは、ある人に言わせれば「タイの数十年前の姿が残っている場所」だということだ。そしてその人はさらに続ける。「ラオス・ルアンパバーンは、チェンマイの数十年前の姿よ」と。

街から街へ、飛ぶほどに緑が多くなる。川は赤茶色濃くなり、空もどんどん広くなる。時間の境目は曖昧になっていき、私は彼らは、きっともっと、自由になれた。

「サワディーカップ」が 「サバイディー」へと変わる中、「コップンカー」も「コープチャイ」へと変わってゆく。すべての境界線はまどろみのグラデーションを描くはずで、まっすぐな線など引けないのに。

月曜日から金曜日、お昼の時間から夕刻の終わりまで、キレイにきれいに分刻みで時計を見ていた私がいた。けれどそれももう遠く、今はもう一週間、一ヶ月がうっすらあるだけで、強いて言えば季節と一年があるだけだった。

こんなことをしていてはいけない、と日本でずっとひとり苦しんでいた。「マトモニイキネバ、モドレナクナル」「イマナラマダ」と唱えてた。けれど夏の終わりに香港に着いた瞬間、「なんかもういっか」と思えてしまって。

だって私は、海外の空が好きだもの。言葉が変わって、空気が変わって、何かに出会いたいと強く思う。もう少し、ほんのすこし。後から見返したら人生のほんの一部。それだけかもしれないけれど、そんな期間が数年続く人生を、歩む人が…いてもいい。

怖い。切ない。不安だ、とても。でも、力技で切り開かなくても、道はあると私は知った。そしてマイノリティは、同じマイノリティを見つける力を持っている。

香港からタイへ、ラオスから、カンボジアへ。気づけば2017年も10カ国目だ。同じく2度目のシェムリアップは、どんな空の色をしているだろう。



いつも遊びにきてくださって、ありがとうございます。サポート、とても励まされます。