「現実を見ろ」という言葉の意味が変わる時。

ねぇお父さん、留学に行きたいの。
ねぇ旦那さん、海外旅行に行きたいの。

あぁもう働きたくない。
もう辞めたい。

負の感情であれプラスの感情であれ、何か新しいことを望むときに、いつもどこかしらで出会ってきた「現実を見なさい」という言葉。

仕事はどうするの。お金はどうするの。家族との暮らしは、ほかの「現実的な」諸々のことは。

たしかにそうね……私はとても夢見がちなのかもしれない、と諦めてきたいくつかの「夢」。

私は週5で都内の会社で働かねばならなかったし、休暇は年に長くて連続9日だったし、東京には楽しいことがたくさんあるから、お金はいつでも足りなかった。夕食を作ったり、洗濯をしたり、部屋の掃除をしたり、時には友だちと夜の街へ繰り出して、踊ったり、笑ったり、ごはんを食べたりしなければいけなかった。

保険を払ったり、年金を払ったり、ときに実家に帰ったり、週末に温泉旅行に出かけたり、友だちの家に泊まりに行ったり、プレゼン資料を夜な夜な作ったり、スーツをクリーニングに出しに行ったり、またそれを取りに行ったりしなければいけなかった。

現実を見なさい、と言われると、たしかに私の言っていることは「現実」からは遠くはなれていて、頭のおかしい、夢見がちな発言として空中分解して、音もなく消えていくような感覚に陥った。

***

Macを持って、音楽をかけて、訪れる海外の国の大通り沿いのカフェに入りながら、クロワッサンを食べたり、ソーセージを頬張ったり、コーヒーや時にはビールなんかを飲みながら、滞在する国の如何に関わらず、「文字を書いて写真を撮る」という同じ仕事をしながら思うことは、「現実を見なさい」という言葉の意味が変わったこと。

現実を見なきゃ。

と今なら自ら進んで言える。危機感を持って、現実を見なければ、と強く思う。

だって、もしかしたら私は自由に生きているように見えるかもしれないけれど、いろいろなことに縛られて今でもとても不自由だし、私以上に自由に生きているひとなんて、世界にごまんといるはずなのだ。

現実を見なきゃ。そういったひとたちが、たしかに世界にはたくさん暮らしているのだということを。

場所も、時間も、内容も選ばず。自分の信じる道を貫いたひとたちが、今日も自分の生業を生み出して、お金を稼いで、次の夢に向かっている。

ヒビノケイコさんだって、イケダハヤトさんだって、ミネシンゴさんだって、周東明美さんだって、みんな素敵に暮らしてた(なんでカタカナのひとが多いんだろう)。

世の中はたぶん、私が20代を過ごしている間に少しずつ変わったのだ。もしかしたら、この世界はずっと前から広がっていた世界かもしれない。気が付かなかっただけで、たぶんそれが正しいのだろう。

現実を見なきゃ。「見なさい」と言われていた頃とは違う、自主性を求められる世界の現実を。

「これからの暮らしを考えるウェブメディア」の編集長をしながら、実務からは一番チームで遠ざかっているように見えて、自分のこれからの暮らし方については、私がチームで今一番考えているように思える。

(※註:実際にはしゃちょうか、立花か、くいしんさんの方が考えている。がしかし、小松崎よりは確実に考えている自信がある)

「現実を見る」という言葉の意味が変わる時、私たちにはきっと違う世界が見えるのだ。

がんばらなきゃ。広い世界でひとり、グーグルマップに小さな線を描きながら、私は今日も東欧を北上する。原稿を書きながら。

私は私の道を、切り開かなきゃ。でも、ひとりじゃなくてよかった。Waseiという会社があってよかったなって、少し思う。

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伊佐 知美

ともみの部屋

伊佐知美の、世界一周の旅とエッセイ。2016年4月〜
2つのマガジンに含まれています
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