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心はいつも、カラダに遅れて旅先にやってくる【ベトナム・ホーチミン】

その日、ホーチミンに着いたとき雨は降っていなくて、わたしが宿にたどりついてそして眠りにつくころ、ごろり、という光と音の幕開けの合図とともに、激しい雷雨がはじまった。

わたしの部屋は、ホーチミンの賑やかな市街から離れた小さなブックストアの、3階だった。地上から離れているぶん空に近くて、そして雨にも近しい場所。ざああ、という形容では足らないくらい、雨は降って、降って、一晩中降り続いていたように思う。

起きたらもしかしたら、初めて訪れたこの街は洪水になっちゃってるかもしれない。夜中4時ごろに目を覚ましたわたしは、そう思ってもう一度眠った。ような気がしてならない。

朝起きたら、すでにミーティングの時間だった。空は「きっと今日の夜も雨を降らせるよ」と、約束をするようなどっちつかずの色をしていて、けれど束の間の夏を存分に味わえるように配慮されていた、感じ。

いつだってどこでだって、わたしのタイムラインは東京で、そしてにほんからも離れることがない。それがよいことなのか、これからも続くことなのか、続けたいことなのかもわたしはもうよくわかっていなかった。ただ、これを1年半続けてきただけ。日常であり、すでにわたしにとっての常識だった。

起きたらにほんは何時かな、と思う。あなたの暮らす国は、今日もいい1日を迎えられているかしら、と。

にほんで暮らすデザイナーさんと、新しくつくるプロダクトの打ち合わせを重ねる。心はにほんにあった。けれど昨夜成田空港の地を1ミリ離れて飛び立った瞬間から、わたしの身体はベトナムに向かっている。

今回ばかりは心が到着するのが、身体よりもすこし遅いようだった。いや、もしかしたら毎度そうだったのかもしれない。心はいつも、身体よりも遅れて旅をはじめるものなのか。

調子がよいときは、颯爽とさきを歩きたがったりするくせに。

街を見よう、とおもった。歩かなければその街の輪郭はわからない。この国が生んだフォーを食べて、民族がほどこした刺繍あざやかな衣類に袖を通して、この街で生まれ育ちそしてここではたらく女の子と目配せをしてやっと、ホーチミンへきたのね、と心が追いつくのではなかろうか。

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へとへとになるまで歩いてあるいて、きっと何かを振り切りたかったんだと思う。こんなことを繰り返してもどこへも行けないと知ってるから。

今夜はクラクションが、うるさいくらいだった。聞きしに勝るバイク天国。なんだか街がふわふわしていると思ったら、今日はどうやら金曜日のようだった。

少し気を抜けば、ひかれて死んでしまったり、ふらりとかばんを持っていかれて、2度と再会できなそうな。紙一重。

夕刻日が暮れたすこしあとから、遠くの空がぴかり、ぴかりと光っているのを、わたしだけでなくこの街の住民はみんな知ってた。

わたしは雷を見ると、いつもオーストラリアのゴールドコーストを思い出す。あの日も遠くで雷が鳴っていた。ものがたりがはじまりそしてページがめくられるとき、そばには意外にも雷があるものなのかもしれない。

雨宿りのために適当なカフェに入って雲過ぎるのを待つ。もはや傘では太刀打ちできないほどの雷雨がまたこの街をおそっていた。

けれどやはりと言うべきか、ホーチミンのひとたちは動じなかった。笑って、そしてまたバイクにまたがる。足元はすぐに乾くサンダルが基本。犬も走る。彼も走る。そしたら彼女も、笑い返した。

人生、なんかそんな感じで生きればいいんじゃないか、とさえ。

一度は飲んでおこうと頼んでみたベトナムコーヒーは、甘ったるくて苦い味がした。どっちかにすればいいのに、とコーヒーに注文をしてみる。無意味なことに意味を見出したい季節だった。

それからは何もしなかった。思い出したり、考えたりしていただけ。そんなことを繰り返していたら、いつの間にか雨は上がってしまっていた。そうか、ではまた歩かねばならない。心ときめく何かがその先に待っているかもしれないから。


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