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心の深さに優劣はない

昨日、この記事を書いて改めて感じましたけれど、最近の体調不良には更年期障害もあるけれど、それに伴うHSP気質が状態を悪化させてるんだろうなあと思います。

まあ更年期のせいにしてみれば「仕方がないか」とも思えるし、曇り空のせいにしてみれば「みんな気象病だよね」と思えるし、繊細さんは多少大真面目に、自分の落ち込みを周りの誰かや何かのせいにすること、大事ですね!


久しぶりにこの本を開いて、「前回はいったい何を読んでいたんだろう」というくらい、まるで新刊読んだみたいに楽しめました(笑)。

特に今日、心に刺さったのは、「心の深さには個人差がある」という言葉です。ちょっと抜粋。

言葉が伝わらない。そんな感覚を持つとき、伝わらないのは、自分の伝え方のせいでも相手に理解する気がないからでもなく、ただ心の深さが違うのかもしれません。
どれだけ物事を深く考えるか、どれだけ相手の気持ちを深く受け取れるか、といった「心の深さ」には、個人差があると私は考えています。
世の中には、物事を深く考えることがそもそも「ない」人、相手の話を深く受けとる感覚がそもそも「ない」人がいます。深さのあるなしは、優劣ではなく、背の高い低いと同じような性質だと考えてください。

武田友紀著『気がつきすぎて疲れるが驚くほどなくなる「繊細さん」の本』(飛鳥新社)

ハッとしましたのは、私みたいに表現教育に関わっていると、個人の「心の深さ」に優劣をつけてしまいがちだ! ということです。

著者の言いたいことを読み取るとか、相手の心情を理解しようとする態度とか、なんかそういうの、評価に直結させてしまってる! かもしれないですよね。

心の深さに優劣はなく、背の高さの違いと思ってみる。その上で、作文教育や表現教育がなすべきことは何か、ってことですよね。妙な読解力を押し付けるのは、無意識でやってしまっていたかもしれず、気をつけよう。


家族間の「わかってもらえなさ」問題も同じ意識が原因な気がします。こんくらい理解してくれて当然、がデフォルトになってしまっている。

「どうしてわかってくれないの!」ではなく

「あ、こういう人なんだ」

と受け止めることって、案外できていないんだろうなあと。冷静になれないというか、いっそ国籍が違う、みたいに思えないというか。

同時に、いつだってわかってもらいたいし、受け止めてもらいたいし、理解してもらいたいし、とにかくまあ、親に無条件にどっぷり愛されたい私たちは、

相手に依存していつまでも答えを相手に求めがちなんでしょうね。

でも、相手は答えを持っていない。その現実を直視しましょうと、みんながそれに気づき始めたというか、そういう成熟した社会になってきたことが、繊細さんというワードが浸透した本当の理由のような気もします。私も、あんなに迷惑被った自分の親が

「あ、あれ、この人たち、もしかして、あんまわかってない・・・?」

と気づくのに30年くらいかかりました。わかってないというより、そこまで気が回ってないし、そこで子供が苦しんでいるという理解に及んでいない。

「そんなこと根にもっとったんかいな」みたいな会話ができたことで、親だから偉大であってほしいとか、尊敬せねばとかいう子ども時代の妄想を引きずり、過剰に期待していたのは自分の方だったと気づいたら、結構楽だったというストーリーです。


大事なことは、この気質を持った人が、そういう自分をどう活用するか。それが本当の課題なんだと思います。HSPは能力、とまで言われると、私なんかはちょっと居心地が悪い感じもあるのですが、

HSP気質を活用して自立することは、刺激から自分を守ることと同じくらい、大事な気がします。「こんな私を理解してください」ということよりも、その能力を持ってして「誰かの役に立つ」ということでしか、本当には救われないのでは。

私の場合は、人の話を聞いて、それを文章にしたり、本作ったりするのが、一番しっくりくるこの能力の使い方。もちろん、それで苦しんだり、できなかったりも結構ありますけれど、そういう時も、立ち直ってみれば誰かにとっての価値ある「情報」になりますし。

だって、このままじゃ普通にしんどいし、生きてて割に合わないもんねえ。四十にして惑わず、死ぬまで生きてやるぜ! というわけで、今日は心が浅い家族のおかげで復活気味なのであります(笑)



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