のだぱい、ふんどし部やめるってよ。

すみません、突然のお知らせで大変申し訳ないのですが、この度わたくしのだぱいめは、5月をもってふんどし部取締役を退職することとなりました。
ふんどし部並びに私のだぱいめは、日毎よりたくさんの友人やステークホルダー、ファンの皆様に応援していただいて、支援してもらっている手前、このようなご報告をすることになって大変申し訳ないというか、心苦しい思いではありますが、決して悲しいお知らせではないし、今までお世話になった方々にこそお伝えしたいことがありますので、この場を借りてご報告・ご説明させていただきたいと思います。

時間がなくてザックリ理由を把握しておきたい方は、以下の--- 要約 ---をお読みください。
下に続く--- 詳細説明 ---をお読みになってくださる方は、冒頭の要約は本文途中にも出てきますので、スキップしていただいて構いません。
詳細説明まで含めて正式な報告ですので、ご友人の方は是非最後までお読みくださると幸いです。
2万字以上あるので、読了時間はおよそ40分程度。
長いですので、お時間のあるときに美味しいハイボールでも飲みながら読むことをお勧め致します。

——— 要約 ———

【趣旨】
のだぱい、2年前に起業した株式会社ふんどし部の取締役を退任し、業務にほぼ携わらなくなります。

【理由】
社会貢献の方法としてやりたい事業の方向性が変わり、今の仕事も手につかないし、とりあえず辞めて次の活動にリソースを費やしたいと思った。

【背景】
自分自信への反省から、個人として追求したいビジョンが新たになった。

【変わった内容】

○自己理念
変化前:自分を恥じることなく打席に立ち続け、自由と勇気の象徴となる。

変化後:
幸せであり続ける。根っからの楽観者ではないから、幸せでいるための努力と技術を追求する。

○目指す社会像
変化前;一人一人が好きを追求して遊びと仕事の境界がなくなる楽しい世界

変化後:
一人一人が肩肘張らずに平穏に暮らし、他人の幸せを尊重し、自分の幸せを肯定する社会

○やりたい事業のビジョン
変化前;ふんどしの普及を通して、日本社会を明るく元気にする。

変化後:
人々の間の気軽な依存関係を高め、個々人が平穏な幸せをつかむためのサービスを提供する。

——— 要約ここで終わり ———



——— 詳細説明 ———

本当にびっくりしたと思います。
僕自身、そんな決意をしたことに対し、当時はびっくりしました。おどろきました。

3年前、僕はふんどしに出会いました。
ふんどしマンとして活動することになったのは、初めてふんどしを履いて、その気持ち良さに衝撃を受け、そしてふんどしで街中を歩いた時の体験に感銘を覚えて、ふんどしを好きななったことが最初のきっかけでした。
そう、僕はその辺にいるただの「ふんどしが好きな少年H」の一人でしかありませんでした。
Just one of ふんどしが好きな少年s でした。

当時好きなことを仕事にしたいと考えていた僕は、このふんどしとの出会いに運命的なものを感じ、何を血迷ったのか、暇さえあればふんどし一丁で電車に乗ったり真冬の寒空の下、都会の喧騒の中を闊歩する、という、エクストリームな趣味を持ち始めたのでした。
断っておきますと、体を露出することが気持ちよかったという変態的な動機からではなく(もちろん当時から体には自信があったわけですが)、ふんどし一丁の男を見た時の周囲の反応を見て人間観察に勤しんでいたこと、ふんどしから始まる赤の他人とのコミュニケーションを楽しんでいたこと、そして周りから見られることで自分のメンタルを鍛え、あるべき姿を目指した自分の人間力を高めていく過程に価値を感じていたことが動機となっていました。

そんでもって自分の活動が多くの人の共感を生み、まあ賛同はされなくとも少なくとも人々の価値観に揺さぶりをかけていることに対して生きがいを感じ、この生き様を何かの事業の形にして社会に還元することが僕の使命だ!と思うようになり、そっからは何も怖いものがなく、ノリで起業したのでした。
実際ビジネスは素人だったので、それはそれで諦めて勢いだけで会社を作りました。
ビジネスモデルとか事業計画とかも最初はなかったです。実際。
「ふんどし部」という屋号も、会社を創るぞ!と決起した2016年の元旦にふんどし一丁で高尾山に登っていた際、「何の部活ですか?ふんどし部?」と幾多の人々に尋ねられたので、「あ、ふんどし部でいっか」というノリで決めました(’笑)。

もちろん最初は収益が立たず(今も大して立ってないですが)、草の根を食べて過ごしたこともありましたが、やはり世の中の反響だけはすごくて、様々な方面から取材を受けたり、いろんな人に興味を持って頂けたり、金銭面含め支援してくださった方もいました。
何より顔も知らない遠方の賛同者からたまに「ふんどし部の活動を見て笑顔になれた」とか、「ふんどし部のおかげで人生変わりました」と言ってくださることが本当に嬉しくて、「俺らの活動はバカみたいだけど、俺らが若者を代表してバカやってるおかげで誰かの役には立っている!少なくとも笑顔は産んでる!日本を元気にできる!」と思い、時折体調を崩しながら裸一貫頑張ってきました。
僕はふんどしに人生をかけるつもりで活動し、パンツや服は基本捨て、真冬でもふんどし+はっぴというスタイルを貫き、年を取っても(まあ見た目が汚くない限りは)ふんどしマンを貫くんだ!という気概でやってましたが、まさか起業から2年そこらで辞めることになるとは・・・・。
人生の中で何度も大きなメタモルフォーゼを経験してきた僕とはいえ、本当に想像もしませんでした。

応援してくださっている皆さんに誠意を込めて、これからその経緯を説明するわけですが、
決してふんどしが嫌いになったとか、ふんどし部が嫌いになったとか、社長の星野と喧嘩したとか、お金がなくて辛くなったとか、そんな理由では決してありません。
「決して」を二回言うくらい決してそんなことはありません。
話は長くなるのですが、最初に要約してしまうと、ふんどし部を辞めることを決意した理由は、

「僕の人生で追求したいビジョンが変わって、事業としてやりたい方向性も変わったから」

です。


ものすごく雑にまとめると、「方向性の違い」というやつでしょうか。
それは星野との方向性の違い、という意味も含みますが、大部分は、
「今までふんどし部で活動してきた自分の方向性」と「現在の自分が目指す方向性」との違いです。
偉そうなことを言うようですが、僕は今まで、
「ふんどしマンとして自分をさらけ出し、打席に立ち、ふんどしという素晴らしい日本の伝統的下着を世界に普及させることで、人間の可能性は無限大であることを体現したい。自分たちの活動を通して、人の目を憚らずに好きなことを追求する人を増やしたい。そんな人の光となりたい。
という思いを持って活動してきたつもりです。
そのビジョンは今でも素晴らしいものだと思います。
ふんどし部という組織は無くならないので、そのビジョンは残った代表の星野が引き継いで、今後も暴れて日本の社会を明るく照らしてくれるでしょう。
でも僕はそれとは別の方向性で自分の人生を幸せにして、そして社会貢献したいと思ったのです。
この日本の社会をより幸せなものにするために。


実を言うと、この方向転換するに至った経緯は、僕自身の反省から始まります。
ふんどしマンとして、起業家としての自分の生き様を社会に提示しようとしていた僕ですが、皮肉にもその自分の”生き様”に対して深く反省することから始まります。


僕がどのような人間か知っているでしょうか。
僕がどんな人間だったか教えましょう。

正直言って、僕は自分に自信がありました。
半分は根拠があって、半分は根拠のない、自分に対する自信がありました。
起業する前から、自分は結構すごいと思っていました。

僕は、対してお金はないけども貧乏ではないいわゆる普通の、愛情あふれる両親が築く素晴らしい家庭で育った、心の優しい、努力を愛する少年ボーイでした。
ずっとそうでした。

(↓↓興味なければこの段落は省いても良い↓↓)
本当に本当の昔にさかのぼると小学生の頃からその自信を積み上げてきたわけなので話は長くなるのですが、
・小学一年生で長崎の諫早にいた頃に、初めての校内マラソン大会に向けて毎晩お母さんと走って(そんなに毎晩じゃなかったかもしれない)、運動神経がずば抜けてよかったわけでもないのに結局一位をとって(あんまり覚えてないが、コースを間違えて2位になったかもしれない)、俺すげーじゃんってなって。
・2回ほど転校して実家のある佐世保の小学校に3年生で転入して、当時は女の子にいじめられてたんだけど、
それが悔しかったのと、空手を習っていたのがきっかけで筋トレにハマり、腕立て伏せが100回出来るようになっておじいちゃんに褒められて1000円もらってうっひょ〜ってなって(結局毎日腕立て100回腹筋100回背筋200回していたのでその当時が肉体のピークだった)、
・結果筋トレは関係なかったと思うけどコミュ力を上げていくことでいじめられっ子からのし上がってクラスの一番上の派閥に入り、むしろいじめる方に回って俺すげーじゃんってなって(比喩であってそんなに人をいじめた覚えはない、本当に)、
・田舎あるあるで上位の派閥の男子生徒はだいたい中学でグレるってのがあって、例に漏れず僕も中学2年くらいからちょっとツッパるようになって部活も勉強も適当になったんだけど(万引きとタバコをふかすくらいはやった。万引きはちゃんとGメンに見つかって店長にこっぴどく怒られて家族総出で謝りました)、
・結局中3の時に塾に通って、もともとストイックだったから勉強が楽しくなって、今まで赤点取ってた「社会」が一番の得意科目になって俺ってばやるじゃんってなって、
・結果高校受験はうまくいって、第一志望の進学校に入学できて一旦めでたし
・勉強と部活必死にやる充実した毎日にやりがいを感じ、中学の頃の自分を恥じてこの頃から文武両道を目指して自分の時間を大事にして努力する人間になった
・うちは全然著名な進学校ではなかったし、当初は頑張れば長崎の国立大学入れるかなってレベルだったけど、なんか運が良くて担任の先生に目をかけられて数学の個人添削を始め(正規課程以外で先生から課題を出してもらって指導を受けるやつ)、結果的にほぼすべての教科添削を受けるようになり、バドミントン部のキャプテンをやりながらも学校の勉強だけで東大に現役合格(10数年くらいうちの高校から東大理系の現役合格は出ていなかったし、僕以降も出ていないので本当に歴史的な快挙だった。自分で言うのもなんだけど)して、俺って本当すげーじゃん、努力って素晴らしいってなって、
・大学でも文武両道を目指し勉強と部活に明け暮れ、マイナー武道の躰道部では全国5連覇を達成して、学問では農学部長賞、課外活動では東大総長賞を賜り、本当に東大でも努力を続けていれば頭一つ抜けられるんだなってしみじみ感動して
・大学院では周りの就活生レベル低いな〜って思って結果的に進路ドロップアウトして起業しちゃった自分の行動力もすげ〜って思ったし、
・ふんどしマンになるとか最高かよって人の目を気にせずに活動できる自分を誇りに思ったし、
(↑↑興味なければこの段落は省いても良いここまで↑↑)

てなわけで数々の自慢をしてきたわけですが、僕はその程度には自分に対して自信がある男でした。
何が大切で何がそうでないか見極め、自分の欲望や生活態度をコントロールして、今やるべきことに集中して適切に努力できる人間だと自負していました。
(なんなら中学生の猿の頃でも、体や頭を気遣って自分のマスターベーションすらコントロールしてたwそのせいでいま早漏なのかなw)
五体満足で身体的にも知性的にも恵まれていないわけでないし、努力家であるし、かといって人を見下すわけではなく、友達が好きで低俗な会話や行動も楽しめていたし、人に感謝する気持ちがあるし(感謝すればこそ努力ができていた)、人のために自分の身を削れるし、人の誕生日を祝うのにも全力を尽くすし、俺ってそこそこ人間的にできてる方だよな〜という自覚があった。

でも、
でもちょっとここ数年は自分のことを大切にしすぎてきちゃったかな。
そう、自分を愛するあまり、自分の努力を愛するあまり、自分をコントロールする能力と努力の方向性が変な方に行っちゃってたかもしんない。


もう一度、僕がどういう人間か教えましょう。

僕は自分の時間を大切にする。
起業したからには、特に家族に心配をかけ、一部の人に不快な思いをさせ、金にならない仕事を選んでビジョンのためだけに起業したからには、誰よりも圧倒的に努力して、絶対成功して人に胸張れる資産家にならなければならない。
休日なんていらない。てかオンとオフの区別すらいらない。
生きるように仕事をし、仕事をすることが生きることだ。
ライフアズワークの時代だ。
生活の中で無駄を省き、正しいリテラシーとともに食事や運動や睡眠もコントロールし、どんどん溢れ出てくる仕事をやるためにできるだけ部屋に引きこもって作業しなければならない。
いつでもPCを持ち歩き、空いた時間にはいつでも仕事ができるようにしないといけない。
恋人といるときでもそう、年に一度帰省して家族といる時でもそう、PCは基本肌身離さない。
レベルの低いやつと、くだらない会話をしている暇はない。
どうでもいい集まりや飲み会は適当な理由をつけて穏便に断る。
まあ友人の誕生日会とかも時にはスキップ。
職場でもそうだ、無駄に会話する必要はない。
できるだけ表情は変えず、何なら仕事の邪魔をしてくるやつは不快感を持って対応しよう。
 

僕は根本的にはいいやつなんで、上記の描写はめっちゃ大げさなんだけど、
だんだん僕はそんな根暗な嫌な人間になってしまっていた。
自分の努力と自律を愛するあまり、他者をシャットアウトし、できるだけ感情の起伏のない状態を目指そうとしていた。
今思えばもっと悪いのは、もっともっと嫌だったのは、
自分の優しさまでシャットアウトしていたことだ。

僕は根本的には心優しい。
みんな幸せになってほしいし、友達のためなら身をけずってでも喜ばせてあげたいと思う。
でも、自律ある自分の生活を大事にするあまり、他人に親切にしてあげようという気持ちが生じたときでも、
「おいお前、そんなことをしている暇があるのか、お前は他人のことは気にせず何よりも効率を求めて生活しないと!」
と、自分の優しさを押し殺している自分がいた。


こんな境遇になってしまったことの言い訳をさせてもらうと、
僕は結構特殊な環境に置かれていたと思う。
ただふんどしマンで起業家ってだけではなくて、
僕は起業する随分前からシェアハウスをやっていた。
個室のないシェアハウスの管理者をやっていた。今もやっている。
そしてAirBNBが出始めた頃から民泊をやっていた。
ルームシェアして他者と共同生活をして、同時にゲストを迎え入れて収入を得ていた。
個室のない家でルームシェアするだけでも人によっては大変なことだが、僕はそれ以上をやっていた。
すなわち、普通の若い男どもと楽しく共同生活をしながらも、ゲストのためにやるべきところはきちんと掃除して綺麗に保ち、部屋が汚れないように気をつけないといけないのだ。
お金を払って宿泊してもらっているのだから、ゲストに不快な思いをさせないように配慮しないといけないし、逆に外国人ゲストが同居者に迷惑をかけないように配慮しないといけない。
それも一日中休むことなく会社の業務をしながら、しかも家にいないことも多いのにそれをしないといけない。

何より重大なのは、僕は共同生活をすることで、居住者から家賃を受け取り、ゲストから宿泊料をいただいている、ということだ。
そこには一定の責任や職務がつきまとうし、収益が発生しているからには「仕事」という認識になる。
つまり、僕はふんどしマンとして歩いているだけで仕事なだけではなく、タオルを洗濯するのも仕事、家のトイレを掃除するのも仕事、備品を買い揃えるのも仕事、ゲストと楽しく会話するのも仕事、生活のありとあらゆる行動が全て仕事につながっている、という境遇なのである。
真面目で自律的な僕にとってこれがいけなかったのは、全ての生活が仕事である限り、あらゆる無駄を排除してそれを効率的にやろう、としてしまうことだ。
だからルームシェアしているルームメイトとも無駄に会話したくないし、食事の時間も最低限にしたいし、常に淡々と家事をこなしていたい。
そういう感覚でいたんだ。
しかも、一緒に住んでいる仲間は、別に同じ志を抱く起業家とかではなく、普通の大学生や留学生やサラリーマンだ。
悪口に映っちゃったら申し訳ないが、彼らは別に一分一秒を大事にして仕事をしているわけではないし(当たり前だが一般の人にとって家にいる時は仕事の時間ではない)、洗濯物は溜めるし干したら干しっぱなしで、俺がいないとすぐ床やキッチンが汚れてしまうほどに家事のレベルも低いし、休日は昼まで寝てるし、その時点で明らかにリテラシーと努力不足である(土日に寝溜めすると睡眠効率が落ちていいことは何もない)。
全てを仕事だと考えて生活している僕にとって、周りに怠惰な人間が映ること自体がストレスだったし、嫌だった。
でも今考えたら、自分を大事にするあまりそんな彼らを見下している自分が一番嫌だったし、そんな自分がいることがストレスだったんだと思う。

僕は次第に「自律」や「効率」を重視しすぎる人間になっていって、
僕は次第に、仏頂面やぶっきらぼう、あるいは不快感を持った表情でいることが多くなっていて、
そんな自分に嫌気がさすようになっていった。

何よりも、本当は優しいのに、自分の優しさをも我慢して押し殺している自分が嫌だった。

決して僕は不幸なわけではなかった。
自分に自信があったし、将来も楽観視してたし、好きなことを追求できて幸せだな〜と思っていた。
でも健全ではなかったんだと思う。
自分に自信があっただけに、自分の嫌なところが見えるようになってだんだんと自信がなくなってくるのがものすごく嫌だったんだと思う。


単刀直入に言うと、僕はもう自分の優しさを押し殺すのをやめた。
人に優しくするのを我慢するのはもうやめにしたいと思う。
そんな風になるんだった、起業した意味なんかない。事業なんてやめてしまえ。
好きなことを追求して周りの人を不幸せにするんだったら、そんな生き方に何の価値があるだろうか。


僕が自分の過ちに気づいて生き方を変えるきっかけは、自己との対話なり人との出会いなりいろんなことがあるのだが、
決定的に大きな要因が一つある。
おかしな話かもしれないがそれは、
フィジーに関するとある一冊の本を読んだことだ。

何てことはない。
フィージーという南国の小国について、人々はこんな暮らしをしているんだよ〜と紹介する、kindleの薄っぺらい本なのだが、
正直自分に嫌気がさしていた自分にとって、その本当の出会いは衝撃的なものだった。
この本を読んだことが決定打となって、「あ、これは違うわ。俺今までの生き方変えよう。」ってなった。

世界でいちばん幸せな国フィジーの世界でいちばん非常識な幸福論

本の内容を簡単に紹介しよう。
フィジーとは、観光業でなんとか成り立っている、日本と比べて対して経済的に豊かでもない、南国の小さな島である。
同時に、「世界一幸福度の高い国」でもある。
幸福度の高い国、というと、北欧のフィンランドやブータンなどの国を思い浮かべるが、フィジーが幸福な国というとは、
「国民の主観的幸福度が一番高い」国であるという点においてである。

参考:
2017年度末の「世界幸福度調査」(米国の世論調査会社ギャラップ・インターナショナルとWINによる共同調査)
「HAPPINESS, HOPE, ECONOMIC OPTIMISM. Gallup International’s 41st Annual Global End of Year Survey. 2017」
http://www.gallup-international.com/surveys/happiness-hope-economic-optimism/

この調査は、「主観的」な幸福度を調べたもの。
世界中の人々に対面、電話、インターネットで調査し、「幸福を感じる人」の比率から「不幸を感じる人」の比率を差し引く「純粋幸福度」を国別に比較して作られている。
そして、フィジーという島国は、こちらの調査で3年連続1位を獲得。
すなわち、あなたは今幸せですか?と聞かれて、「うん、幸せだよ」と答える人の割合が最も多い国、ということだ。

一方、同じ「世界幸福度調査」でも国連開発計画(UNDP)が出したレポート(2015-2017)では、
1位:フィンランド 2位:ノルウェー 3位:デンマーク
というお馴染みの北欧諸国。
我々の日本は55位で、フィジーは100位以内にもランクインしていませんでした。

参考:
国連開発計画(UNDP)の「WORLD HAPPINESS REPORT 2018」
https://s3.amazonaws.com/happiness-report/2018/WHR_web.pdf

上のUNDPの調査は、平均余命や識字率、就学率や失業率、自殺率や一人当たりGDPなどの具体的なデータをもとに、「人間開発指数」という数値でその国の人の生活の質を図って導き出した、「客観的」な幸福度でランク付けしたものだ。
すなわち「幸せになるためにはこのような要素が必要であろう」と考えられた指標をもとに定めた客観的なもの。
フィジーは決して裕福な国ではないし、「人間開発報告書(2016)」での人間開発指数は188か国中91位と低いのでこの結果も頷ける。
一方我々の国日本の人間開発指数は17位。
先進国であり政治も安定している日本は、客観的な指標ではまずまずの位置にいると言っても良いだろう(その割には幸福度が低いのだが)。

主観的幸福度と客観的幸福度の調査のランキング上位3国を並べると、
1位:フィジー   2位:コロンビア 3位:フィリピン (日本は18位)
1位:フィンランド 2位:ノルウェー 3位:デンマーク (日本は55位)
と、このような全く違った様子になる。このことは注目に値すると思う。

その調査手法から、もちろん後者の方が明らかに具体的で客観的で信頼に足る調査だとは思うが、よくよく考えてみれば「幸せ」とは自分が感じるものであって、他者から「この指標がこの数字だからあなたの幸せはこれくらいなはず」!と客観的に決められるものでは決してない。
幸せとは、事実ではなくて情念なのだ。
政府が国民の幸福を考えるときには自殺率や失業率をなんとかしなきゃと考えるのは妥当だろうが、我々一人一人の人間にとっての幸せとは主観的な「Yes」「No」で決まるものだと思う。
そういう意味では、フィージーが幸福先進国であって、我々日本は経済的に先進国でありながら幸福途上国と言っても差し支えないだろう。
(ちなみに、「微笑みの国」ブータンも幸せな国として有名ですが、筆者の言葉を借りると、この国は国策として戦略的に「幸せを目指している国」であって、個人個人が「幸せになっている」フィジーとは一線を画しているようです。)

それでは、なぜフィジーの国民たちはこうも「幸せ」なのでしょうか?
上述した本の著者であり、脱サラをして100カ国以上を旅して唯一「日本よりも住みたい」と感じフィジーに移住した永崎氏は、フィジーの人々が幸せである理由を考察し、現地での生活や自信の体験を交えて伝えています。
詳細は本書に譲るとして、僕が印象深かった理由をいくつか紹介しましょう。

その①:フィジー人は所有と独占の概念がない
フィジー人は何か自分だけのものを所有する、「私有」という概念がほとんどない。あるにしても、甚だしく小さい。
海外でアイスを食べていれば知らない人から一口くれ、と言われるし、洗濯して干していたTシャツを買ってに着られる。
お金も、土地も、家族も、なんでも共有する。
誰かが車を買えば近所で共有し、なんなら子供の多い家族が子供ができない夫婦に「子供すら」あげちゃう。共有する。

その②:徹底的に「現在フォーカス」
過去を振り返らない、未来を案じない。「今ここ」に全精力を注力する。
これは日本でもよく言われることですが、実は多くの人ができていない。
誰もが年金を案じ、子供や自分の将来を案じ、過去のことを掘り返して陰鬱になったり、人と喧嘩したりしてませんか?
フィジー人は、これを地で行く。
だから仕事でミスをしても反省しないし、貯金も健康も気にしなくて、肥満や糖尿病が多いw
でもたとえ病気でも、みんな現在を幸せそうに生きている。
僕は健康が大好きで、健康に気を使っている方だと思いますが、この本に載っていた(多分)、
「何も健康になるために生きているわけではない」
というフィジー人の言葉に、ハッとさせられました。
確かに、健康でいることは幸せに生きることにとって大事だけど、僕たちは健康のために生きているのかといったらそうでもない。
目からウロコでした。

その③:みんなテキトー
完璧主義国の日本と比べて、海外だとサービスレベルが低いとか、レストランでオーダーしたものとは別のものが出てくるといったことはよくある話ですが、フィジーも圧倒的にテキトーです。
印象深かったエピソードは、著者が靴を買いにショップに行って、希望のサイズを定員に伝えたところ定員が店の奥に探しに行って、30分以上待たせられたにもかかわらず閉店時間で先に帰ってしまった、というエピソードです(笑)。
どんだけ無責任でテキトーだよ、と思いました。日本だったら大問題ですね。
でもフィジーでは店員も客もみんなテキトーなので(これ大事)、これでまあなんとか回っているそうです。
私たちはどうでしょう?
「お客様は神様」と崇め、過剰なサービスや品質向上に努め、勤務時間が長くなり、ブラック企業と騒ぎ立て、客の立場になったら今度は店員に望み通りのサービスを要求し、10秒コンビニで待たされるだけでもイライラ・・・。
そんな僕ら日本人の姿を見ると、フィジーの人はどんな風に思うんでしょうね。
都会の喧騒の中で毎日必死に働いている皆さん、ちょっとなんかこう、感じるものがありませんか?
僕自身完璧主義者なので、この日本社会の構造を省みると、グッとこみあげるものがあります。(てか本読んで泣いちゃいましたw)
本当はもっとみんなイージーに生きられるんじゃないのかって・・・

その④:「人類みな兄弟」を地で行くフレンドリーさ
見知らぬ人同士でも話しかけ合い、道端でよく会話に発展するのは当たり前。
そんなレベルではなくて、5分も話せば友達になり、「ウチでランチはどう?」と聞かれる。
間違い電話をすぐ切るのは失礼で、一緒に自国に住んでるだけで友達だから長電話。
みんな雑談好きだからプリペイド式の携帯電話はよく残高不足で使えなくなっている。
でも残高ゼロでも、相手からかけてもらうために「コールバック待ち」のメッセージだけを送れる番号がある。
日本だと知らない人からの電話は出ないのはもちろん、最近では電話すら掛けるのは失礼(ビジネス界隈では)みたいな風潮もありますから、間違い電話相手に長電話なんて忙しい我々には到底真似できないでしょうね(笑)


なんだかんだ書くと長くなってしまいましたが、このフィジー人の幸福さを主張するような文化というか、言葉があります。
それは「ケレケレ」という言葉で、フィジー人のおおらかさ、心の豊かさはこの「ケレケレ」文化に集約されていると言ってもいいでしょう。

「ケレケレ」とは元々「お願い」「ちょうだい」「貸して」などを融合させた言葉ですが、フィジー人はそれを
「俺のものはみんなもの、お前のものもみんなのもの」
という哲学とともに使っています。
要は、ジャイアンの優しい版です。
先述の理由①でも述べた通り、服でも食べ物でも勝手に使われるし、そもそも「盗み」と「共有」の境目が曖昧。
驚くのはまだ早い。
著者がシャワーを浴びているうちに、財布から10ドル札が一枚減っていて、ホストファザーに確認したところ、
「隣の家のおばあちゃんが亡くなって大変そうだからみんなから10ドルずつあげておいたで」
とのこと。
シャワーを浴びているうちに勝手に人の財布からお金を抜いて別の困った人にあげちゃう。。。
日本で言えば「窃盗」です。
なぜそんなことを許可なくするのか問い詰めたところ、
「隣の人が困ってるから、聞く必要もないと思って。」
と笑顔。
本当かよ、と思いますが、フィジーでは信頼関係が構築されていれば、「窃盗」ではなく「ケレケレ」になるそうです。
ただ、このホストファザーとは知り合って2日だったということですから、フィジー人がいかに電光石火で人と信頼関係を構築するのかがうかがえますね。

「なんでも共有」「お前のものはみんなのもの」というと、我々日本人からするととても不健全で危険な匂いがすると思います。
それがフィジーで成り立つのは、「ケレケレ」と同時に、
「困った人を助ける、持つものが持たざる者に与えるのが常識」
という思想を人々が持ち合わせているからです。
ザ・ナチュラルトリクルダウン経済です。

また面白かったエピソードがあり、
著者が、体調を壊した近所のおばあちゃんが病院に行くお金がないというので、現地で身につけたケレケレの精神で往復のバス代を恵んであげると、おばあちゃんはお礼を行ってバスで遠方の病院に向かうわけですが、病院の途中にいた物乞いにバス代をあげてしまう始末・・・。
著者「僕はバス代としてあげたのに!体調悪いのに炎天下の中2時間歩くつもりなの?」と少し腹を立てますが、そこはフィジーのおばあちゃん。

おばあちゃん「ええねん。私より物乞いの方が大変なんだから。あんたが私を助けてくれてるみたいに、私も人助けせんとね。ニコリ。」

読者(日本に住む僕)「(シェー。言葉も出ません・・。)」


フィジー人がどうして幸せなのか、だんだんつかめてきたと思います。
きっと年中温暖な気候や美しい島国という環境もあって、
自分のものやことに執着せず、今だけを捉え、隣人と仲良く暮らし、雑談を愛するフィジー人。
結局、小さな共同体の中で暮らして、誰もが友達という感覚がある。
「私有」や「独占」という概念がなく、すべてを共有しているので、お金や物への執着がない。
「ケレケレ」の精神で、誰もが助け合い、そして人を助けることに喜びを感じる。
そもそも現在フォーカスだから人を助けられるのだし、困ったら人が助けてくれるから未来に対する不安がない。だからこそ人に優しくできる。
誰もが他者を必要とし、必要とされることで日々温もりと幸せを感じている。

結局、そういうことなんだと思います。
「共有」「現在フォーカス」「おおらか」「フレンドリー」という資質のおかげで、「怖れ」や「孤独」といったものがないんでしょうね。

心理学者のアドラーが言っていました。

「生きていく上で最大の不幸は、
 自分が周りに必要とされていないと感じる孤独感であり、
 最大の幸せは、
 人に必要とされることだ」

真理だと思います。


上記のフィジーに関する事柄は、僕が上述の本を読んだり、フィジーにいった友達に聞いた事から3次情報として並べているだけであって、
僕自身はフィジーにいった事がないので本当の事は知ったこっちゃありません。
本当はそんなにフィジーは楽園のような国ではないかもしれないし、案外みんな優しくないのかもしれません。
悪い人だって少なからずいるでしょうよ。

ただ大事なのは、本に書いてあることがそっくりそのまま本当かどうかにかかわらず、そこから何を得るかということです。

僕はこの本を泣きながら読んで、自分の生き方を反省しました。
(反省しつつも重々リスペクトはしているので、後悔はしていません。)
苦しい中努力するのはもちろん美徳だと思いますが、自分の将来の成功やくだらないタスクのために今の生活を犠牲にしたり、
やりたいこと、本質的にやるべきことを後回しにし、なおざりにし、
目の前に困っている人がいても自分の都合を優先し、自分の気持ちに嘘をついて自分の優しさを裏切る。
そんな自分がとても小さくて、恥ずかしいものだと反省しました。

現在にフォーカスして、将来を怖れず、自分の気持ちの赴くままに生きて、困っている人を助け、自分の趣味の時間、家族や友人や恋人、身の回りの人との時間を大切にして、日々のささやかな幸せを噛み締めながら生きていこう、と思いました。
「自分が今、幸せであること」を大事に、共有と相互扶助の精神で生きていこうと思いました。
目の前に自分より困っている人がいたら、とりあえず助けてともに笑おう。そんな人に、私はなりたい。

まずは自分自身の幸せにフォーカスする。
周りの人は助けたいけれど、無理くりにそれをルール付ける訳ではない。
自分の幸せのために他者を助けたり他者に助けられたりすることは大事だけれど、それは必須ではない。
幸せな自分が誰かの救いになることと、誰かを救うために自分の幸せを犠牲にすることは、大きく違う。
けれど、何も難しいことはない。
要は、自分の気持ちに素直に従って生きていく、ということだ。
僕には、やりたいことがたっくさんある。
高校時代部活でやって1年前に再開したバドミントンをもっと極めたいし、最近始めた走りも長く続けていきたいし、ボクシングもやってみたいし、空手や躰道などの武道の道も歩みたい。たっくさん読みたい本があるし、買っても読んでない本があるし、見たい映画が沢山ある。
スポーツ以外の趣味嗜好も多い。タバコは興味ないが、お酒は好きだし、自宅に何十本ものスピリッツやリキュールがある、コーヒーも好きで基本的に豆から挽いて飲むし、焙煎まで手を出したら楽しそうだな。幼少期ハマってた釣りもいいし、キャンプも楽しそうだ。
ギターも上手くなりたいし、ピアノやバイオリンだって弾けるようになって、一人でもさだまさしを楽しみたい。
もっとたくさんの国に行きたい、住みたい。たくさんの女性と恋愛したい。物欲だってキリがない。

人生には沢山の喜びがある。
それら全部を楽しみたいなら、スティーブジョブスのように一本集中の生き方を目指したら、できないんだよな。
だから、僕はそれを目指さない。
全部中途半端でもいいから、全部できなくたっていいから、全部手を出したいと思う。
一個、ただ一つ、集中するとしたら、それは「幸せでいること」。
自分が今そしてこれからもずっと幸せであることに感謝をしながら、日々幸せに生きていたいと思う。
そして、あわよくば、その幸せな自分が誰かの幸せのほんの欠片になればいいな。
そしてそしてあわよくば、この大好きな日本を、もう少し生きやすい社会にして、本質的に多くの人が幸せに生きられるような社会の構築のために貢献する事業ができたらいいな。

と、思いました。

そう。
そうです。
僕は上記の本だけでなく、他の本、自分の体験からくる内省やいろんな人との出会いの中で自分の生き方や理念をアップデートして、人生の姿勢として方向転換することにしました。
僕のパーソナルな話で非常〜〜〜〜うに長くなってしまいましたが、そろそろこの報告のタイトルに戻らなければなりません。
一言で言うと「人間としてもっと真っ当に生きる!」というどこの誰にでもよくあるありふれた宣言に過ぎない長い文章でしたが、それだけでは僕が創業した株式会社ふんどし部を退職する100%の理由にはなりません。

僕は今まで「ワークアズライフ」を掲げて、
「自分の好きなことを追求し、ちゃんと成功して、人間の可能性は無限大であることを体現したい」
的な自己理念を胸に、
「思いっきり自己表現する人を応援して社会を元気にする」
という目的でふんどしの会社をやっていました。

僕は、自分の生き方を見直して、自分の理念をアップデートしました。
今の僕の人生のビジョンは、
「ちゃんと幸せに生きつづける(1次目的)」
です。
そしてあわよくば、
「他人の幸せに貢献する(2次目的)」
そして出来ることなら、
「社会の幸せに貢献する(3次目的)」
です。

僕は実務的には会社員に向いていますが、気持ちは起業家なので、自分自身のビジョンが変われば会社のビジョンも変わります。
率直に言うと、それが僕が今の会社を手放す理由です。
それだけです。
今まで金でも地位でも名誉でもなくビジョンだけでやってきたので、ビジョンが変わればそうなるのは当然の話です。
もちろん自分のビジョンに合わせて会社のビジョンを変える、という選択肢もあるでしょうが、株式会社ふんどし部は2年のうちに今まで築いて来たブランドや方向性や枠、というものがあり、何より2人で創った会社です。
それはそれで尊重しなければならない、守らなければならない、続けたほうが良い方向性というものがあって、ふんどし部はふんどし部で今後とも社会に価値を提供していってもらわなければなりません。
ただ、僕は僕で、社会に対して価値を還元する方向性が変わったので、それを体現するものとして、別の事業・別の会社をやっていきたい所存です。

今後、僕がどうするかといいますと、

先述の1次目的の通り、まずは幸せに生きます(笑)。
今までは、「ワークアズライフだ!」「事業として社会に何かをすることこそが自分の使命であり価値だ!」という姿勢でしたが、今は違います。
幸せに生きることがまず第一であり、その結果として誰かを幸せにできればいいな、なんなら社会も幸せにできたらいいな、ってくらいのゆるいイメージです。
以前も端から見たらゆるゆると楽しく暮らしてたような印象かもしれませんが、「好きなことを追求する」というビジョンのために、早く成功しなきゃ、とか金を稼ぎたい、といった僕なりの変な焦りもあったのですが、今は変に気負ってはいません。
今の世の中は、夢を持とう!とか、好きなことを追求しよう!とか、自分だけのオンリーワンを見つけよう!的な風潮ですが、実際そんなものがなくても幸せに生きていけます。
この日本という安全で恵まれた環境にいる限り、不幸になることや急に死ぬことは簡単なことではありません。 
実際幸せは情念なので、気持ちの持ちよう。金がなくても結婚しなくても、子供がいなくても年金がなくても、頭と体さえしっかりしていれば幸せに生きられますよ。まあ友達とコミュ力はあったほうがいいけどね。
逆に、いくら五体満足でも、家族が健康でいても、学校に行けて教育が受けられても、いい職につけてお金を稼げても、心が満たされなければ幸せにはなれないのです。
上の幸福度調査のデータはそのことを物語っているといえるでしょう。
僕は今のところ五体満足で健康ですし、大して収入もなく借金もたくさんあるけど毎日美味しいものを食べ、自分に自信があって将来の不安もないので、こちらの「幸せに生きる」という目的に関しては自信があるので大丈夫です。

そして、2次目的。
近年ワークライフバランスとか、ワークアズライフとか言いますが、僕は一周回って今こそワーク for ライフだと思っています。
今まで思考停止してましたが、普通に考えて人生や命が最優先であって、ワークがライフに匹敵したり、ライフとバランスしたりしてたまるもんですか。
我々は農耕というものを発明して穀物を育てるために労働し、最初は生きるための労働だったのが、いつしか労働するために生きるようになってきましたが、本来は生きることがまず第一優先のはず。
今は働く=生きるという考えが浸透して、それがかえって現代人の負担や悩みのタネになっているような気がしてならないので、そんな勘違いをなんかええ感じで払拭できないかな〜と考えています。
僕は自分の幸せに自信を積み重ねていって、自分が死なない程度に、ガンガン人助けをしたり人に投資していきたい。
そして気軽に人に頼って、そして頼られる存在になり、助け合って優しく豊かに生きるコミュニティの醸成に貢献してみたいと思う。
というわけで、短くまとめますが、自分は自分の理念を体現する生き方をした考えを発信したりすることによって、そして人に優しく接することによって、周りの人を少しでも幸せにできたらなあというのが2次的な目的です。

3次目的。これは僕が事業として何をやりたいか、という方向性になります。
今まで自己の理念を体現した会社を行っていましたが、今後も自分の職業、社会への接点として、自分の理念を体現した会社をやっていくつもりです。
自分の核となる部分はそうそう変わるもんではないとしても、どのように社会に貢献するか、という3次目的に関しては、それをどのように行うかが会社のビジョンとなるわけですから、そのやり方によって方向性が大きく変わってきます。
僕は、自分気付いた人生の本質や幸せの作り方を生かして、日本をより人々が生きやすい社会にしたいと思っています。
なぜ日本かといったら深い意味はないのですが、とりあえず、まあ、生まれたところだし、好きだし、まあそこしか知らないし。

日本は世界でも有数の発展した国になりましたが、世界でもトップクラスの豊かな国、幸せな国だと言えるでしょうか?
幸せに順序など関係ないと思うので、何も「世界一」を目指さなくてもいいとは、思いますが、
今の日本は、誰もがこの国に生まれてきてよかったと思い、日々幸せをかみしめて生きている、そんな社会と言えるでしょうか?

僕は、自信を持って「自分は幸せ!」と高らかに宣言できる日本人がどれだけいるか疑問に思うし、そんな人が増えればもちろん嬉しい。
今はどこか社会に閉塞感があって、幸せを感じづらい日本。
「仕事」のプライオリティが高すぎて、基本的に多忙で他者に構う時間がない日本人。
失敗すると徹底的に叩かれる、普段の生活でも職業人はお客さんに徹底的に媚を売る、そんな環境だから失敗を恐れ、将来を憂いやすい日本人。
多神教が生活に浸透しすぎて、宗教が形骸化してるから、信じられるのは己のみ、基本に人は信じてはいけないと教わるから心にゆとりがない日本人。
でも幸せに生きるって、本当はもっと簡単なはず。
もっと肩の力抜いて、楽に楽しく生きられるような気がするんです。
そう、ただ愛すればいい。
自分と他人と、そして社会と自然を愛すればいいだけのこと。
仲間を大切にするとか、困った時は助け合うとか、大切なことは小さい頃に漫画がすべて教えてくれている。
それなのに、受験とか、学歴とか、収入とか、世間体とか、親の希望とか、夢とか、将来への不安とか余計なものを持ち出すから話がややこしくなる。
もっと、シンプルでいい。
ありのままでいい。
僕は、僕がそうであったように、「好きを追求しよう!夢を持とう!」っていう現在の社会の風潮が、どこか一周回って人々の焦りや不安を助長しているように思えてならないんです。
なんか違うな〜っと。
今の日本人、我々に足りないのって、時間の余裕とか、心のゆとりとか、身近な人への共感とか、友人との雑談とか、夢や希望を追い求めるんじゃなくておうちで幸せになるための努力とか、別のところにあるんじゃないのかな〜って、思う。

フィジーの国の人々は
「共有」「現在フォーカス」「テキトーさ」「フレンドリーさ」と言った特性で、恐ろしいほどに幸せに生きていました。
これらの要素は、どこか今の私たち日本人に欠けているものでなんじゃないでしょうか?
日本が幸福先進国になるために非常に重要な要素だと思いませんか?

もちろん、フィジーの人の価値観は素晴らしいけれど、そっくりそのまま日本に適応できるわけではないと思います。
フィジーと日本とでは、自然環境も社会情勢もまるで異なります。
だけど、
小さな島国だけど安全で豊かな四季があり政治も安定している日本。
人々も勤勉で真面目でモラルが高くて、本来は親切で優しい日本人。
ほんのちょこっと、エッセンスだけ真似して取り入れることで、もっと人々が穏やかな気持ちで生きられる、優しい社会に近づけるのではないでしょうか?

僕は、自分の人生の中で得た幸せのエッセンスを社会に還元し、より良い社会に近づけるための事業をやっていきたい。
人々がもっと互いに助け合い、精神的にもゆとりがある生活を送り、足元の”本質”を見ておのずから幸せになれるような、そんな社会を実装するプロダクトやサービス・事業をやっていきたいと思う。
今のところ、ユーザが自律的に共済を作れるプラットフォームなどアイデアはあるが、その具体的な形はまだない。
焦ってはいないので、みなさんと意見を交換しながら、語りながら、一緒に作っていければいいなと思います。

皆さんによく考えて欲しいことがある。
以下のグラフは、「国民生活に関する世論調査」を基に作成された、日本国民の生活満足度の平均値の推移である。
すなわち、1958年以降、日本人の生活満足度が時代とともにどのように変わってきたのか、ということを示している。
ちなみに、「生活満足度」は、well-beingの研究で「主観的幸福度」とともに重用される指標である。

(出典:伊藤正憲「幸福のパラドックスについてのノート」。京都女子大学現代社会研究)

グラフをどう読み取るかは人それぞれだが、誤解を恐れず単純化した場合、全体として横ばい、近年はむしろ下降傾向にあると言える。
私たちは1960年代から経済の成長と生活の利便性を向上させてきたわけだが、我々の満足度はそれに比例して高まっておらず、下がってきているとも見て取れるのだ。
これは悲しいし、悔しいことではないでしょうか。
米国でも同じく、時系列での所得と幸福度の間に相関は見られず、同じ一国内では所得が上昇しても幸福度は変わらないあるいは頭打ちになるという「Easterlin Paradox」の名で知られている。

皆さんも何となく気づいているんじゃないでしょうか?
今よりもっと高い収入、より豊かな生活を求めても、永遠に本来探していたMAXの幸せはやってこないということに。
僕の持論では、「幸せになりたい」「幸せとは難しい」「将来のために今〜〜しなければならない」と言うのは、最も幸せから遠い人達だ。
(それよりは、幸せについて全く考える暇もないくらい何かをやっている人の方がいくぶん幸せに近い。)
じゃあ何を目指して、何を当てにして生きていけばいい?
子供達に何を残して、何を与えて将来を託せばいい?

実は答えは足元に転がっている。

僕らは、幼少期の頃に、友を大切にするとか、正直でいるとか、前向きで笑顔でいるのが一番とか、大事なことはみんなマンガやアニメで学んでいる。

そんな幼少期に遊びながら学んだ道徳が通用しないということを教え、それを忘れさせる場に、今の学校や社会はなってはいないだろうか?
子供の頃に学んだ道徳は全て捨て、人を切り捨てるとか、人を信頼しないとか、何よりも自分を優先するとかを学ぶことが「大人」と呼んではいないだろうか?
僕は涙が出てくる。
僕ら大人の本当の役割は、年金の補償を子供達にしてあげることではなく、将来を憂い子供の気持ちと時間を奪い何から何まで親のやらせたい習い事を押し付けることでもなく、子供の頃に学んだ道徳が大人になっても通用する社会を次世代に残すことではなかろうか。
かっこいい大人、かっこいいパパに、僕はなりたい。


誤解しないでほしいが、僕はなにも、「幸せになりたい」と言っているわけではない。
今のこの幸せが続くように、なんならもっと膨らんで周りに溢れるように、ずっと大切に守り、磨いていきたい、ということなのだ。
僕には地位も名誉も職業も家庭もない(女には困ったことがないw)が、不思議ともう何も欲しいものがない。
いや、実際買いたいものとかはあるのだが、何か不足している感じがしない。もう何も求めるものがない。満ち足りている。

周りや家族で勝手に心配する者はいるだろうが、これ以上なく今幸せで、一体何を心配すればいいのだろうか。

幸せという情念は、そういうものだと思う。

我々は文明の発展を遂げ、生活水準を絶え間無く向上させ、その拡大と意地を目指しているが、それが私たち一人一人の幸福に直結しないことは誰もが薄々気づいている。

僕はだからと言って、資本主義に抗おうとは思っていない。
資本主義は効率的だが、限界がある。だが、それはどのような他の施策よりマシであることは歴史が示しているし、何よりその資質上、無限に拡大膨張する。とても抗うことなんてできっこない。

だから、僕は、ちょっとだけ、遊んでみようと思う。
資本主義に抗うんじゃなくて、資本主義をバカにする。
資本主義の世界の中で、遊んじゃう。
みんな、遊ぼ?w

そんなメッセージ性を持つ事業できたら最高の遊びだね。
やりたいね。


閑話休題。

そういうわけで、今の会社の枠組みからは、やりたい事業のビジョンが変わってしまったので、ふんどし部を退職するとこにしました。
逆に言えば、特に何も決まっていないのにビジョンの更新だけで仕事やめました。
僕って前からそうですが、こっちの方向性でいきたい!と決断したらすぐにそちらの方向に気持ちが向いて、今やっている古い方が手につかなくなるんですよね。
だからもう、無理でした。
世の中の働く皆さん、こんなあまっちょろく生きててすみません。


ここらで要約しましょう。

——— 要約 ———

【趣旨】
のだぱい、2年前に起業した株式会社ふんどし部の取締役を退任し、業務にほぼ携わらなくなります。

【理由】
社会貢献の方法としてやりたい事業の方向性が変わり、今の仕事も手につかないし、とりあえず辞めて次の活動にリソースを費やしたいと思った。

【背景】
自分自信への反省から、個人として追求したいビジョンが新たになった。

【変わった内容】

○自己理念
変化前:自分を恥じることなく打席に立ち続け、自由と勇気の象徴となる。

変化後:
幸せであり続ける。根っからの楽観者ではないから、幸せでいるための努力と技術を追求する。

○目指す社会像
変化前;一人一人が好きを追求して遊びと仕事の境界がなくなる楽しい世界

変化後:
一人一人が肩肘張らずに平穏に暮らし、他人の幸せを尊重し、自分の幸せを肯定する社会。

○やりたい事業のビジョン
変化前;ふんどしの普及を通して、日本社会を明るく元気にする。

変化後:
人々の間の気軽な依存関係を高め、個々人が平穏な幸せをつかむためのサービスを提供する。

【変わらないこと】
・ふんどしを愛すること。
・ふんどしの普及を願っていること。
・収入が少ないこと。
・食にはこだわるところ。
・人を喜ばせるのが好きなこと。
・健康を愛すること。
・運動を愛すること。
・意外と毒舌なこと。
・日本語遣いが変なところ。
・人と自分に厳しいこと。
・努力家なところ。
・根は真面目なところ。
・本質家なところ。
・うるさいパーティーが嫌いなところ。
・好きな人嫌いな人はっきりしているところ。
・万人を愛することができないところ。
・お酒が好きなこと。
・コーヒーが好きなこと。
・小さい女の子が好きなこと。
・多趣味なこと。
・歯磨きが長いところ。

——— 要約ここで終わり ———


思うことありったけ書いたので無限に長くなってしまいましたが、そういうわけで、私はふんどし部をやめます。
ふんどしは好きだから当然今後も履くし、ふんどしマンとしての生き様は続けていくし、「はっぴ&ふんどし」に囚われないふんどしファッションも楽しく追求していこうと思う。
ただ、業務としてふんどし部の事業に関わることはほぼなくなりますし、すでに取締役は退任していますので、今後のふんどし部のビジョンや方向性に僕の個人的な思想は反映されなくなります。
ふんどし部と僕個人野田貴志は、別の人格として進んでいきますので、何卒よろしくお願いいたします。
僕は自分の生き方がアップデートされてスッキリしていますが、今までふんどし部あるいはふんどしマンとして僕を応援してくださったり、支援してくださった方、そして何よりも一緒に働いてくれた方には大変申し訳なく思います。後ろめたくはないのですが、正直気まずいです。
本来であればお世話になった方には直接お会いしてご報告とご挨拶を申し上げたかったのですが、数分数十分の会話ではうまく説明する自信がなかったことと、何より気まずいし気恥ずかしいので、このような長ったらしい文章でのご報告になってしまったこと、こころよりお詫び申し上げます。

こんなよくわからない僕を応援してくれて、時には金銭的な援助もくださった方々、本当にありがとうございました。感謝しています。
「お前これからって時にもう2年で辞めるのかよ」「諦めが早いな」などと失望されるかもしれませんが、今までの僕への応援や投資はしっかり僕の糧となっていますし、次にもつながっていきます。
今後も僕のできること、僕だけができることを実践し、社会とみなさんの幸福に貢献していきたいと思いますので、何卒ご理解いただけると嬉しいです。

こんな形で皆様の期待を裏切ってしまった代わりに、一つだけ約束させてください。
今まで僕がお世話になった方、応援してくれたみんな、そしてただの僕の友人、僕はあなたが本当に困った時には、喜んであなたの力になります。
何か困った時には、言ってください。
食べるものがなくてひもじかったら、僕がご飯を作ります。
寝床がなければ、僕のベッドに泊めます。
人手が必要であれば、体を張ります。
元気が必要であれば、歌います。
酒が必要であれば、飲ませます。
金がないときゃ、俺んとこに来い。
俺もないけど心配すんな。

僕がたとえ困っている時でも、あなたが僕より困った時には、喜んで支えになりたい。
苦しゅうない範囲で。

僕は、あなたを助けます。
だから、だから、あなたも一つだけ約束してください。
僕がいつか本っ当〜〜〜に困った時には、ぜひ助けてあげてくださいな。

そうやって、子供の頃夢見た社会を一緒に作りませんか?

今後とも、よろしくお願いしますね。
それでは、ごきげんよう。


p.s. 

最後に、この文章は単なる報告ではなく僕の手記、作品ともしたかったので、冗長な表現などで無限に長く回りくどいものになってしまいました。
あと、「ですます」調も、各章やテンション感で所々変わり、統一感のない文章になってしまいました。
ほとんど意図的ですが、読みづらくなってしまいましたことをお詫び申し上げます。


p.p.s.

長い報告を読んでいただき誠にありがとうございました。
と、いうわけで、のだぱいは新しい生き方と事業にチャレンジしていくわけですけれども、ひとまずは具体的な形がないので、自分の得意なことでライスワークをします。
新しい会社の名前は既に決めて、本来であれば会社の株式を売り払ったお金で早速登記しようと思ってたのですが、自分の借金の返済や趣味に充てたり、エストニアに行くのでその旅費に充てたり、あとは最近周りの友人知人がたて続けにクラウドファンディングを始めたので、それの支援でほとんどお金がなくなってしまいました(てかカードローン増えましたw)。
なので会社作るお金なくなっちゃった!
てな訳で収入が必要なんです。
最悪バイトとかもやるんですが、できるだけ自分の能力を生かせた方が嬉しいので、人々のダイエットや健康のサポートやアドバイザリーを友人価格で初めてみようと思いますので、ご興味のある方&のだぱいを応援したい方は是非是非メッセください!

(2019年2月追記)
今ぼくが行なっているお仕事は、
・ダイエット、健康増進目的の栄養指導コーチング(月15000円〜)
・ボディメイクのコンサルティング、パーソナルトレーニング(月35000円〜)
・WEBサイトリニューアル、WEB制作(一件15万円〜)
・ツイッターコンサルティング(1アカウント2万円〜)
です。


また、退職祝いにお前の欲しいものを買ってあげよう!という稀有な方は、こちらのウィッシュリストからいただけますと非常に嬉しいです!
僕に酒の恩義がある方は酒を、僕にコケの恩義がある方は是非コケをお願い致します!


p.p.p.s.

僕をよく知っている友人のみんなへ

と、いうわけで、あろうことか、僕もついにふんどし部のふんどしマンではなくなりました。
あんなにふんどしふんどししてたのだぱいがふんどしやめるなんて!と驚きのことと思います。
まあ個人的なビジョンが変わって、やりたい事業のビジョンが変わったのでとりあえずやめるわけなんですが、
僕を古くから知っている人はわかるように、僕があんだけハマっていたふんどしも、
あくまで僕の一つの「枠」でしかありません。
僕らもはなっからふんどしの普及が目的なのではなく、その先にある自由とか、夢に溢れた社会とか、元気な日本とかが究極的な目標なわけです。
(もちろんふんどしは今でも最&高です。)

みんなそうだと思います。
僕の周りにもいろんな友達がいて、昆虫食の普及に努める奴がいたり、屠殺や狩猟のワークショプをやって命の現場を伝えようとしている奴がいたり、自分なりの音楽活動やアートを追求している奴がいたり、「プロ無職」や「プロ奢られヤー」などがいたり・・・。
みんなそれぞれの枠の中で自分を規定し、奥底にあるもっと究極的な目的のためにその枠を使って頑張っている。
でも特に、自分の定めた枠によって自分が苦しんだり、歪められたり、葛藤したりすることもあるだろう。
時には、自分が決めた枠の中で頑張ろうとするあまり、本来持っていたはずの何か大切な”本質”を見失ってしまうことがある。
そんな境遇に気づいたら、一旦自分で築いた枠を取っ払ってしまうことをお勧めする。
そこにいるあなたは中身のあなたであって、外側の枠を取ったあなたと寸分の違いもない、紛れもないあなたである。
みんな初めての人生を生きている。
初めてだから、何かうまくいかなくてもしょうがない。
あなたにとって今の人生は初めての経験なのだから、成功のやり方がわからなくて、とまどって当然なのだ。
何かの枠でだめなら、別の枠でうまくいくか試す。それを繰り返すのが良い。
人生は「フレームワーク」だ。

僕も「ふんどし」という強固な枠を築いて、それを取っ払った。
東大まで出たのに体張ってふんどしで起業して、人と違うことをして、それなりにメディアで騒がれるようになってすごいね〜と褒められ、多くの方に支えられてきたから、その枠を取り払うことは一見もったいないと思えるかもしれない。
ところが、枠を取り払った僕は、以前と何も変わりやしない。
同じように四肢が生え、同じように思考し、同じように呼吸している。
だから、恐れなくていい。
人は、今まで投資してきた時間や労力に対し、オポチュニティコストを見出し、何かを始めることや、何かをやめることにリスクを感じる。
だが、与沢ツ○サさんが言っていたように、死ぬこと以外はリスクではない。

大切なことだが、僕らはこの世に生を受け、今まで死んでいないから生きている。
ただそれだけでしかない。
科学的に考察するのであれば、この生まれ持った命に意味なんてないし、個々人の人生に意義など初めから存在しない。
僕らは物理化学現象で繁殖の競争を機械的に繰り返す遺伝子の一時的な乗り物でしかない。
人生は、死ぬまでの暇つぶしである。
だから、シンプルでいい。
好きなタイミングで、好きなことを、好きなように、やろう。
誰も文句は言わない。
文句を言うとしたら、紛れもない、あなた自身くらいだろう。

親の言うことも気にしなくて良い。
僕の経験上、親は時に良い事を言うし、たくさんの事を学ばせてくれるが、あなたに向けて言っていることの80%は間違っていて、真実ではない。
親は、往々にして、あなたよりもこの世界の事を知らない。
若いあなたよりも、他人の目を気にせず生きる術、後悔せずに生きる術を知らない。
そして、親はあなたとは異なる、全くの別人である。
親や兄弟、家族はひとえに大切でかけがえのないものだが、生活必需品ではない。
極端な話、あったら人生がより豊かになる、嗜好品のようなものだ。
そう、親はとびっきり輝く宝石のような美味しいチョコレートだ。
あったほうが良いが、それがなくても、あなたはあなたの人生を幸せに全うできる。
それは親があなたにとって、単なる別人だからである。
それに対し、あなたはあなたにとって別人ではない。
あなたにとって、あなたよりも大切な存在はない。
家族ですらあなたより大切ではないのだ。
ましては横柄な上司、狡猾なライバル、あなたを批判する赤の他人なんてなおさら大切ではない。
だから、恐れることはない。
自分を信じ、自分の心の赴くままに行動すれば良い。
そして、自分を信じるために、他者を大切にし、努力と功徳を積んで、自信と道徳を磨くのが良い。
それが、幸せになるための努力だと、私は思う。


p.p.p.p.s.

ここまで読んでくださって本当にありがとうございます。

最後になりましたが、せっかくここまで読んでくださったので、ご意見・感想などコメントあるいはメッセージお待ちしております。

本当なら報告したい人一人一人と直接話したかったけど、コミュ障なんで。あなたが読んでくれたという事実が僕の励みになります!
できれば暖かい励ましのメッセージがいいな!

また、僕が方向転換するにあたって決定的な影響を与えたこちらの書籍、読んでみたいなと思われた方はぜひそうすることをお勧めいたします。

その際には、本文中のこちらのリンクがアフリエイトリンクになっておりますので、ここから購入していただけると僕に少し収入が入りますので、そうしていただけますと大変喜びます。


kindle unlimitedが使える方は無料で読めます。

そして、フィジーに興味持たれた方、ぜひ一緒に連れて行ってくださると嬉しいです!


p.p.p.p.p.s.

ここまで読んでくださった心優しい人の中にも、

「な〜に性善説振りかざして理想論語ってんだよガキが!
お前の名前は『夢見がち男』か?
じゃあ優しいお前は何の恩もない俺に昼飯でもご馳走してくれんだろうな〜!ケッ!」

って思う方もいるかもしれません。

まあ大体おっしゃる通りだと思いますが、僕は何も性善説は主張していないし、僕にも愛せる人愛せない人の差別があるし、助けたいと思う人しか助けないでしょう。

むしろ、科学の理解から性悪説の主義に近いですし、何もせずほっておけば利己的に行動し、他者を蹴落として自己中心的に生きてしまうのが人間の性だと思っております。

それでも、人間には理性や文化的なソフトパワー、道徳や宗教がある。我々は自分の遺伝子によってプログラムされた思考や行動に、理性なり道徳によって抗う術を持ち合わせているのです。だから尊いのです。
人は弱く、人は強い。
我々は元来利己的にできているが、利他的に振舞うよう、努力し・教育することができる。
これが人間の尊さだと思います。

確かに僕の主張は、この日本社会においてはほとんど理想論といってもいいでしょう。

まあ、だからなんだというのでしょうか?
たった一度きりの人生、初めての人生でこれで最後の人生なのだから、理想論振りかざして幸せに生きるのもいいではありませんか。

どんなにたいそうなことを成し遂げても、何も成し遂げなくても、人は同じように死んで、死んだあとに行き着くのは「無」なのです。

どうせ死ぬんだから、人に優しく好きなように死なせてください。


いいですよ、喜んあなたに昼飯をご馳走しましょう。

僕にマイナスな感情を突きつける時点でその可能性は高いですが、僕があなたに対して好感や愛情が持てる限りは、僕はあなたを助けたいと思うでしょう。

僕は「イエスマン」ではない。
だから、嫌いな人は嫌い、助けたい人は助ける。ただそれだけです。
そう、無限に普通の一般人です。

ただ、基本的に生活苦ですが、わざわざ会いに来てくれた友人には理由もなくペッと1000円あげられるくらいにはみみっちい優しさは持ち合わせている、普通の一般人でしょう。

僕の主義主張に対して様々な批判や非難を浴びせることができるでしょうが、わざわざ人の幸福にいちゃもんつけようとする人よりは、僕は幸せに生きる自信があります。

その時点で僕の圧倒的勝利なのです。

はい、俺の勝ちー。

さあ、とりあえず圧倒的に最強なニートになろう。


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ありがとうございま〜っす!
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のだぱい

のだぱいの心ノオト

のだぱいが、心の赴くままに、みんなの心に届けたい思いを綴ります。 世界が優しくなりますように。

コメント6件

>タカザキマリコさん

ありがとうございます!
文章でぼくの想いが伝わること以上に嬉しいことはありません!
今後とも応援よろしくお願いします!
>はるき

就活とりあえず頑張ってみるのも大事だと思うけど、それが全てじゃないからね!
ただ、心が疲れない限り、何かは頑張ってほしいと思うけどね!
自分や誰かのために、頑張って、腹が減った時にはいつでもおいで。
お久しぶりです。文勤にいた中田です。
なんとなくお名前ググってみたら退任されていてびっくりで、勢いでnoteのアカウント作ってコメントしちゃいました!読ませる文章で面白かったです。
自分の時間を大切にされる野田さんが、どう人に優しくされていくのかとても興味深いです。ご自身の幸せを追求されつつ、今後も益々ご活躍されることをお祈りしております!
中田@Stuttgart
幸せになったあなたと、いつかどこかでばったりあって万引きGメンのネタで漫才が出来ることを楽しみにしています
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