いち当事者からの『TOCANA』三浦俊彦寄稿文への批判2

その2ですが、該当記事の2ページめ以降は、当事者にとって閲覧注意レベルの暴論や侮辱が連続します。この投稿についても適宜引用箇所が含まれますので、ご注意ください。

前回(https://note.mu/tomotomo1987/n/n71a17c61ea03)で、そもそも記事の根幹にある「Cotton ceiling(「#木綿の天井」)」の概念自体が、海外でトランス排除を望む人達によって大幅に歪められた代物であり、それを説明なしに"輸入"した代物である点を解説しました。
そのため、該当記事自体が間違った土台に建てられた欠陥建築である事を、初めに指摘させていただきます。

データ引用の不誠実さと、データ解釈の非学術性

さて、該当記事2ページめの冒頭には「トランス女性」の性指向に関して、引用つきのデータが記されています。
この個所、記事が公開されてから差し替えが入っています。初めは匿名の「当事者ブログ」での肌感やヤフー知恵袋での匿名回答をそのまま引用し、それが学術的な価値を持たないデータである点をデータ側から指摘されると(もっとも、その指摘はこの記事のコメントで指摘される以前からブログの追記欄にあったのですが)、今度は海外から拾ってきたデータを貼り付けています。
しかし、そのデータ解釈についてはこう述べたままです。

バイのMtFはパートナーとして女性を求める傾向にあるそうなので、〈アセクシュアル〉〈ストレート〉を除いた75%のMtFのうちかなり多くが女性パートナーを求めていると見ていいでしょう。

この解釈も、実際には匿名の「当事者ブログ」での肌感を根拠にしており、論理面での飛躍(というか極めて恣意的な解釈)があるのは明らかです。
その上で、ブログにおけるデータ提供者を名乗る方から「「MtFの8割がレズビアン」だなどとは言っていない事が、Akemiさんのブログをきちんと読めばお解りになると思います」と釘刺されている(トカナのコメント8番。太字部分引用者)のは、しれっと無視しています

その後、18日になって「はりまメンタルクリニック」(東京にあるジェンダークリニックで、多くの当事者が利用している)における本邦のデータが公開されました。

しかし、その事をコメント欄から指摘された時、今度は「そのサイトの、2015年04月03日、てんかん発作によって性別違和が治った、という記事が興味深いと思いました。」という具合に、話を逸らしてしまいました(トカナコメント欄16番)。
「はりまメンタルクリニック」の実数調査(MTF 女性25%、男性44%、両性18%、なし5%、不明9%)を使ってしまうと

バイのMtFはパートナーとして女性を求める傾向にあるそうなので、〈アセクシュアル〉〈ストレート〉を除いた75%のMtFのうちかなり多くが女性パートナーを求めていると見ていいでしょう。いわゆるMtFビアンは「MtFの中の特殊な人々」ではなく、「普通のMtF」だということです。ここ、押さえときましょう。

という自身の論拠が怪しい物になるから無視したと考えるのは、私の疑いすぎでしょうか?
もっとも、どのデータを採用するにしても、「ストレートとアセクシャル以外全ての当事者」が女性への性的指向を持つという極めて乱暴なデータ解釈が、学術的に完全に破綻しており、欠片の正当性も持ち得ないのは明らかです。

マジョリティとの違いを強調する事の差別性

次の指摘に入る前に見出しを分けて念を押しておきたい事があります。
それは、仮にトランス女性において女性への性的指向を持つ人が「マジョリティ」より多いとしても、それは排除や異常視する根拠にはならない、という事です。

そして、三浦氏のように「マジョリティとの差・違い」を強調する事で偏見を助長し、悪印象を植え付ける手法は、他のマイノリティへの攻撃でも頻繁に使われてきた手法です(たとえば、在日韓国朝鮮人の方達の生活保護受給率など)。
三浦氏の寄稿文には「MtFビアンは「MtFの中の特殊な人々」ではなく、「普通のMtF」だということです」という風に、その論法の節々で「違い」を強調する印象操作が含まれている事は、はっきりと指摘しておかなければなりません。

ミスジェンダリングの暴力性

さて、データを引用した後の三浦氏の寄稿文は、はっきり言って暴論のオンパレードであり、まさに閲覧注意なものになっていきます。
当事者が見ると気分が悪くなる個所が多分に含まれていますので、ご注意ください。
次に三浦氏は、「近年の定説」なる代物を持ち出してきます。

①トランスジェンダーは差別されてはならない。 (←当たり前!)
②人を差別しないとは、当人が自認する属性のとおりに認めることである。 (←はあ??)
③したがって、MtFを女性と認めない者は差別者である (←①②から確かにこれが導き出されますけどね!)

三浦氏が付けたカッコ部分じたい、まじめに議論するなら不誠実な煽りでもありますが、「当人が自認する属性のとおりに認めることである」というのは、それまでトランスジェンダー当事者が受けてきた差別に対する抵抗の結果にほかなりません。
現実として、この社会は性別二元論を基にして、「人は男か女どちらかである」という前提に組み立てられています。
そのような社会において、当事者が自認する性別で扱わない事(この行為をミスジェンダリングと言います)が、いかに当事者を社会的に不安定な立場に置き、精神を蝕み、その健康を害する暴力的な差別であるか。
つまり、トランスジェンダーが真に差別されない社会を作るには、このミスジェンダリングという差別を解消しなければならないという現実があります。

これは、多くの自殺者を出したコンバージョンセラピー(同性愛者やトランス性を「普通」に戻そうという治療。近年ではトランス女性のLeelah Alcornという人が、親に無理やり入れられた末、自殺している)への抵抗や、学術的な知見という、トランスジェンダーの先人達の数多の屍を基礎とした、歴史の積み重ねでもあります。

しかし、トランス排除を望む人達の多くは、このミスジェンダリングが現在進行形で引き起こしている暴力や差別に目を向けようとしません。
それは三浦氏も例外ではありません。それどころか氏は

「L※の方々。私もLですから、コミュニティに入れてくださいね💛 分け隔てなくデートしてください💛 リラックスして下着も脱いでね💛 私がペニス持ちだからって避ける人は差別者ですから。よろしく💛」

という風に、極めて侮辱的で嘲笑を含んだ、トランス女性の悪魔化に利用しようとします。

このように、トランス女性に関して積み重ねられた暴力と差別の歴史、そして今も現実に横たわる差別を無視し、トランス女性でもレズビアンでもない非当事者のシス男性が、それらマイノリティを手前勝手な思考実験の遊び道具に使い、当事者を侮蔑する事に、果たして正義はあるでしょうか?
何よりトランスジェンダー当事者やレズビアンの生徒が現に存在している東京大学という国立大学の教授として、自校の生徒を傷つけ、偏見を助長する言説を、大学教授の肩書をつけて流布する事に、社会的責任は無いのでしょうか?


長くなったのでいったん切ります。次回以降は、こういう時はすっぱり忘れ去られる「性的同意」を軸に、反論していくことになるかな?と思います。

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