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去り方


5年間務めた会社を辞める。

久々に訪れた本社。
行くたびにプロフェッショナルな顔つきでいたからか、
ピリッとした表情をしていたのだろう。

今回は、どこかみんなの表情はやわらかくて、
歓迎ムードが漂っている。
それは今日自分の表情自体が
緊張が切れたリラックスした表情だから。

とても頭がよくて、
どんな情報も頭の中の大きなデータベースの中から
整理してロジックに討論してきた厳しい上司たちと、

一緒にウィスキーを自宅で飲んで、
そのあと、
そのインテリな上司の中でもトップで頭が切れる、
でもソーシャルスキルはそうではない
厳格な上司と夕飯を共にする。

いままでは、
上司と部下だった、

でも今は当たり前みたいに
互いに歩み寄り、
旧友のように同じ空間の仕方をするようになった。

「なにかやりのことしたことがあった場合は
いつでも連絡してください。」

と伝えた自分に対して、

「そんな必要はない。
去ったものは死んだ人たちと私は捉える。

そして再会したときは
両手を広げて喜び合おう。」

”死者の日”
家族や友人が集いが個人への想いを馳せ、
死を恐怖とするより
死者と共に笑い合い楽しい時間を過ごす祝日。

そのような文化があるメキシコだからこその表現。

もう君のことは知らない、
というよりも、

同じ場所で仕事をする仲ではなくなるけれど、
これからは人と人として特別な存在だ、

とまるで伝えるような言葉。

去り方、
というのはとても大事だと思うようになったのは、

私自身が今までいろいろな仕事に携わらせてもらったけれど、
現場の同僚や上司との関係は良好でも、
本社の上司に
「こうなりたい」と思う一種のあこがれや、
「この人の力になりたい」と思う尊敬の念というより、

こうやっていうのも申し訳ないけど、
反面教師で
「こうならないようにするには何を大事にしたらいいんだろう」
と思うことのほうが多かったからだ。

だから去る時も、
こころから、というより表面的で、
「いつでも帰ってきてね」
と言われても、社交辞令だな、と思ってた。

いつも振り返って恋しくなるのは、
一緒に働いてきた同僚の人たちとか、
時間を過ごしてきた生徒さんとかだった。


すべてそこに責任を置くつもりもないけれど、
”メンターの存在” や ”憧れの姿”
が会社の上司に抱いたことがあまりなく、
”そういう人たちのもとで働きたい”
と会社を去る理由の一つになることが多かった。

「ああ、この人と一緒に働いていきたい」と
初めて思えた人もいた。
かっこよくて、エネルギッシュで、クリエイティブで、
でも方向性、それが同じ方向を向いていた、
そんな気がした。

お酒を呑みながら話してわかった、
こころから一筋の光がひとつの星をさしている、
その星の種類が同じで、
仕事の仕方、姿勢、問題との向き合い方、思考回路、
休日の休み方、人生で大事にしたいこと、
そういうものの一つ一つが
気になって、かつ学びにつながっていく気がした日々。

様々な事情があり、
一緒に働ける期間は短くなってしまったけれど、
学ばせてもらいながらお金まで頂ける、
と思えたのは、社会人1年目の時ぶりだった。
幸せな時だったと思う。

そんな私の状況と、
今回の彼の会社からのステップアップ退社。

去り方は大事だと思う。

でもそれは去る時だけ、
表面的にきれいにするからできる形ではなく、
いままでの会社や人、任されたことや
任されてはいなくとも
自分にできることを懸命にやった人が
感じることのできることで、

かつそれを見てきてくれた人がいるからこそ、
叶う事なんだと思う。

おめでとう、ミアモール。
これから、また新しい冒険の始まりだね、
あなたと人生を歩めることを幸せに思うよ。

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