弔辞 - 追悼・中西俊夫 / 熊谷朋哉(SLOGAN)

いまも忘れられないことがあります。2016年の1月11日、夜に中西俊夫の還暦を祝うパーティが行われることになっていました。そしてその日の午後、デヴィッド・ボウイが亡くなったことが伝わってきました。

自分の還暦を祝うパーティであるのにもかかわらず、その夜のあなたは少なからず落ち込んでいる様子で、私たちはふたりで沈んだ話をしたことを思い出します。いま思えばあのときから、なにか不吉な陰が差していたようにも感じています。

時間は、運命は、われわれからいったいどれほど多くの人々や才能を奪えば気が済むのでしょうか。あれから1年、デヴィッド・ボウイに続き、プリンス、レナード・コーエン、そして中西俊夫をわれわれは失ってしまいました。

中西俊夫は、1956年に渋谷区広尾に生まれ、セツモードセミナーを経て、1976年に立花ハジメさん、佐藤チカさんらとプラスチックスを結成しています。プラスチックスは79年に島武実さん、佐久間正英さんらを加えてイギリス・ラフトレードからデビューし、そして80年にはビクターからメジャーデビュー、翌81年にはアイランド・レコードから全世界デビューを果たしています。その後中西はメロン、メジャーフォース、スカイラブといったバンドやレーベル、プロジェクト等で多大な業績を残し、さらに、イラストレーターとして、文筆家として、またファッションの分野でも大きな足跡を残すことになりました。

私は2013年の年末に、マネジメントを担当して欲しいという直接の依頼を受け、社を挙げてその任についてきました。

初期プラスチックスやメロンのマネジメントを担当していた桑原茂一さんとお話ししたときに教えていただいたことがあります。「僕は中西俊夫という才能を全世界で売りたかった、こんな存在がいることを世界中に知らしめたかったんだ」。

茂一さんのその目標は、かなりの部分、達成されたように思います。今回届いた世界中からの哀悼のメッセージ、報道を見ても、中西俊夫は、日本発の、掛け値なしにワールドワイドな存在感を誇るアーティストでした。むしろ日本国内よりも、世界的なレベルで見た方が知名度は高かったかもしれません。

マネジメントの役割を引き継いだ私の目標は、茂一さんの目標を更に前に進めたところにありました。プラスチックスをはじめとする中西の音楽的な業績、文筆やメディアでの業績、絵画やイラストの業績、ファッションの業績をアーカイヴ化し、改めて、21世紀、全世界にその価値を明確に示し直すことです。

私は、中西俊夫の才能は、まだまだこれからのものだったと考えています。まだまだ、本当にまだまだ、知られていない部分が多すぎました。本人の照れ屋の性格や品の良さも、それを見えづらくさせていた部分も大きかったように思います。そしてもしかしたら、本人すらまだ気づいていない才能を持っていたと言えるかもしれません。私の目標は、それを世界の誰にでもわかる形で明らかにすることでした。

様々な方々のご協力を得て、プラスチックスのアルバムはデラックス・エディションとしてまとまりました。これまでの足跡や過去の記事は自伝や書籍のかたちでまとまり、ファッションやイラストはジンとしてまとまりました。そして実はこの3月、アメリカはテキサス・オースティンでのSXSW、そのライヴ出演もほぼ内定し、それに合わせてZE RECORDSからプラスチックスのアルバム全世界再デビューが確定し、中西俊夫は、改めて、世界に向けてその弓を振り絞っていたところでした。

2016年5月に行われたブルーノート東京での再結成ライヴは、35年ぶりの世界ツアー、その初日のつもりだったのです。

しかし続く6月、中西は喉の不調と肩胛骨の間の痛みを訴え始めました。家族を含め、周囲は精密な検査を強く勧めましたが、本人は、なかなか病院に行きたがりませんでした。

私はいまも、あの6月にどうしてもっと強く、たとえ引きずってでも病院に連れて行かなかったのかを本当に悔やまされています。そして余りにも速い病気の進行でした。

そんな中、忘れられないことがありました。

中西本人が私に電話をしてきて教えてくれたのですが、身体の痛みと不安を、一度、立花ハジメさんに散々にバカにされたそうです。不安を40年来の盟友に笑ってもらえた中西は本当に嬉しそうで、「ハジメにバカにされちゃった、なに言ってんだよ中西、肩こりだよって、と、めちゃくちゃに笑われちゃった」と、ハジメさんのマネをしながら教えてくれたものです。彼は本当に本当に嬉しそうでした。

いいなあ、いいものだな、これがプラスチックスだな、と思わされたことを思い出します。

しかし、残念なことに病は進んでしまいました。残念です。本当に残念です。無念というほかはありません。

中西俊夫は本当に不思議な人だったと思います。あの独特の屈託のない笑顔が、2月25日にこの地球上から消えてしまいました。

いま、久保田麻琴さんの協力によって、中西俊夫の最後のシングルがリリースされようとしています。2011年に録音されたT.REX「チルドレン・オブ・ザ・レヴォリューション」のカヴァーである「チルドレン・オブ・ザ・ラディエーション」、そして1989年のチェルノブイリ原発事故の後に録音された「チャイナ・シンドローム」のカップリング、この本当に強力なシングルの実物を本人に見せられなかったことを、心から残念に思っています。

彼が生命を賭けて叩きつけたかったメッセージを日本語訳したその歌詞カード、それに対する確認作業が、私と彼との最後の交信になってしまいました。

未来はいつも、中西俊夫の後ろを追ってやってきました。われわれはあらゆることに、やっとのこと辿り着いた場所に、中西俊夫の足跡を見つけてきたのでした。

中西俊夫は、宇宙人だったと思います。あの独特の勘の鋭さと優しさとフェアネスは、本当にこの人は地球人じゃないんじゃないか、と思わされたことが幾度もあります。

私はひとつ怖いことを考えています。もしかすると、この地球や、日本、東京が、中西俊夫にとってはあまりにも醜いものになりすぎたのかもしれないということです。そうだとしたら、残されたわれわれにはいったいどのようなことができるのでしょうか。

中西俊夫は地球から、宇宙へと帰りました。中西は、今頃、宇宙をぷかぷか旅をしながら、きっと新たな「未来」を探していると思います。もしかすると、すでに新しい星を見つけているかもしれません。

しかしながら、われわれには今はまだ、中西俊夫の姿が見えません。その姿をどこかに探さなければいけません。そしてそれ以上に、中西俊夫がいないことに耐えなければなりません。彼の不在に、慣れなければなりません。

今日、私と皆さんとは、中西が我々を置いていってしまったことの辛さと悲しみとを共有するために集まっています。

余りにも早い旅立ちでした。

中西俊夫さん、貴方のおかげで、地球はとてもカラフルになりました。本当にありがとうございました。どうぞ、美しい旅を。宇宙が待っています。またすぐにお会いして笑い合いましょう。

(熊谷朋哉 / 2017年3月6日)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?