犯罪者に気づかずスルーする

 八月二十九日(月)大沢

 以前この病室に入院していたという男が検査のついでに病室に顔を見せた。砂原少年や福留さんとひとしきり話したあと、自分がいたベッドを今現在使っている俺の顔をちらりと見て、「これから仕事なんだ」と背中を向けた。男の視線に妙な感覚を覚え、彼の後を追った。

 男の視線は僕ではなく、その向こう、自分がいた空間自体を見ているようだった。そして何かを思い出しているようだった。ただ単純に、入院していた時のことを思い出している感じではない。うまく言葉にできないが、要するに男の目はおかしかった。

 急いで廊下に出ると、数歩先を男が歩いていた。背後から「すいません」と声をかける。男が振り向き、こちらをまっすぐに見た。呼びかけられたことに返事はなかった。

 「あのベッドに移ってから、気になっていたことがあったんですけど」

 幽霊の正体見たり。それは目の前の男なのか。

 「据え付けの棚に、ヘアピンが入ってたんです。もしかしたら前の人の忘れものかと思ったんだけど、女ものなんですよね。あなたのってこともなさそうだし」

 「ああ、あれね」

 男は一度視線を落とし、微笑む。

 「あれ、前からありましたよ。僕が来た時から。僕も誰かの忘れものじゃないかと思って、もしかしたら取りに来るかも知れないから、そのままにしておいたんです。女ものなのにおかしいなとは思ったけど」

 「そうなんですか」

 それはとても当たり前のことを言っているように聞こえた。しかし、男が演技しているような、決められたせりふを言っているようにも思えた。

 「あれ、私が看護師に渡しました。忘れものならナースステーションに寄るだろうから」 

 「そうですか、そうですよね。最初からそうすべきだった。すみません」

 「とんでもない」

 男はこの暑いのにネクタイも緩めず、上着も着ているが額には汗ひとつ浮かべていない。彼はこれから会社に行き、当たり前のように仕事をする。これからもずっと。男の後ろ姿が見えなくなるまで、僕は彼の背中から目が離せなかった。男は僕が見ていることを百も承知のような素振りで、角を曲がると姿を消した。

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