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「女だから」が激突する。キントリが描く3人の働く女


本記事は、2022年1月3日に放映された「新春ドラマSP 緊急取調室 特別招集2022」の内容に言及しています。作品とは一切関係がありません。内容のネタバレも含んでおりますので、閲覧の際はご注意ください。


今年は、男女雇用機会均等法が制定されてちょうど40年だ。

今の日本には、さまざまな年代の「働く女性」がいる。均等法前から働いてきた60代の女性、総合職へとキャリアを進めた40−50代の女性、さらにはそのあとの、産休育休が当たり前に存在する我々30代。

女性が働く環境は目まぐるしく変化してきた。結婚したら仕事を辞めるのが当たり前だった時代。そこから、結婚後も男性のように働く女性が現れ、出産後も仕事を続ける女性が生まれた。さらに今は、男女関係なく育児と仕事を続けられるようなキャリアや社会が望まれるようになっている。「働く女性」と一括りにされがちだが、生まれる時代が10年違うだけでその環境は大きく異なる。


その違いを感じたのが、1月3日に放送された「緊急取調室」だった。天海祐希さんが所属する「緊急事案対応取調班(通称・キントリ)」の刑事たちと容疑者との、息つまる攻防が魅力の作品だ。

作中には3人の働く女性が登場する。東京高裁のトップ判事であり、もうすぐ定年を迎える源秀子(高畑淳子さん)、シングルマザーの取調官・真壁有希子(天海祐希さん)、捜査一課からキントリに異動した生駒亜美(比嘉愛未)だ。働く女性の第一世代が秀子、第二世代が真壁、第三世代が生駒、となる。


事件の幕開けは、秀子の自宅で身元不明の遺体が見つかるところから始まる。関与を否定する秀子に対し、疑念を抱いたキントリは捜査を始める。高畑さん演じる秀子が、登場した瞬間から”トップ判事”らしい威厳を見せつける。有罪率99.9%の刑事裁判において、何度も無罪判決を出しているという経歴だけで、気骨に溢れた人物だと感じさせる。

その秀子に尊敬の念を抱いているのが、新規にキントリに加入した生駒だ。初登場時から「女性の地位を上げたい、手柄を上げたい」と野心を隠さない姿が印象的だった。

生駒「私も大きな事件で成果を上げたいです。警視庁では主要なポストに女性がついていない状況を改善したいので」

自信にあふれる姿は、雇用機会均等法前後に働き始めた女性たちとはまた違う、強さとプライドを感じさせる。自宅が綺麗なのは妻が綺麗好きだからだ、という同僚に「家事をするのが妻という考えは古いですよ」と細かく噛み付く。女性だからなんて言わせない、という気迫を隠さない。


生駒は秀子のことを尊敬している。先を歩む「働く女性」として、女性の地位向上に貢献した一人として、目標とし、憧れを抱いている様子が伺える。

生駒「源判事は来年9月に定年を迎えますが、20年間一貫して『疑わしきは被告人の利益に』という判決を下してきました」
真壁「ふーん。よく勉強してるね」
生駒「庶務課の時に何度か裁判を見て、すごい方だなと」
真壁「憧れてたんだ」
生駒「えっ? そんなんじゃありませんけど」


秀子、生駒と比べて、真壁はどうかと言えば、彼女はさほど「女性らしさ」を感じさせない。初期の頃は「シングルマザーとして子供を育てる刑事」の姿が描かれることもあったが(そして今回も、夫との家事分担を促す生駒に、夫が殺害された過去をいきなり突きつけてくる)あくまで作品の主軸は別にある。キントリの仲間から「おばはん」と呼ばれることも、否定も肯定もせず流している。

これは私の憶測だが、「キントリ」は被疑者と取調官の一対一の攻防に焦点を当てた作品だった。作品の主軸はそこにある。決して真壁を名誉男性と描きたいわけでも、あるいは夫に先立たれた哀れな女性と描きたいわけでもなかった。シングルマザー奮闘記ではない。

真壁の、ある意味女性らしさを感じさせない、女性でありながら飄々とした感じが、長らくキントリの視聴者には定番のものとなっていた。だからこそ、「女だから」「男だから」に喰ってかかる生駒の姿に違和感を感じた視聴者もいたかもしれない。


第一世代の悲しみと功績


この三人が一堂に介するのが、終盤。家族から隠された事実を打ち明けられ、狼狽した秀子が家を飛び出す。これまでの人生を否定され、どうにもならないとなったところで警察に保護される。真壁にコーヒーを差し出され、生駒も立ち会う中、彼女は初めて自らの心情を吐露する。

秀子「わたくしは事件を打ち明けられた時、隠蔽する道を選びました。孫のため、そして判事としての責任のため」
生駒「隠すことが責任ですか?」
秀子「裁判官の家族が殺人を犯したとなれば、大きな影響が出ます。私が、冤罪であると無罪を認定した人まで不審を抱かれるかもしれません」
秀子「判事は普通の人生を歩めません。わたくしは判決に全てを捧げてきました。女の裁判官と色眼鏡で見られても名を上げるために頑張ってきました。それが、定年のわずか4ヶ月前に踏み躙られるなんて」

のちほど彼女は「ささやかなスキャンダルさえも起こさないために」と、家族に車に乗ることさえ許さなかったと明らかになる。判事は普通の人生を歩めない。女の判事ならばなおさら。

法学者である夫ではなく、女性である秀子が主導的に、家族に対して厳しい規律を課したというのは興味深い。男性であれば、身内が車で事故を起こしたとしてもまた職務に復帰できるかもしれない。だが女性である自分は、些細なことが命取りになる。一度道を外れたら復帰する機会は与えられないかもしれない。法曹界が男性ばかりだった時代、トップ裁判官という地位に上り詰めるには並々ならない覚悟が必要だったのだろう。


20年以上前、日本のドメスティックバイオレンスを取材したアメリカの女性文化人類学者がいた。彼女が日本の弁護士に取材をしたとき、そこにいたのは全員男性で、口を揃えて「日本にドメスティックバイオレンスは存在しません」と言われて面食らったという記述がある。


高畑の弁を、一刀両断にしたのは生駒だった。

生駒「そういう考えが、一番、女性の地位を下げるのに。なんだかんだ言って、本当は立派な裁判官のままで終わりたかったんじゃないですか。カッコ悪いです。尊敬してたのに」

ここで、どちらの主張が正しいかを論じるのはやめる。どちらも一理ある。産休育休もなく、夫が育児をするなんて考えられにくかった時代に、出産後もキャリアを積むというのは並々ならない努力があっただろう。男よりも優秀でなければ生きていけない時代、高畑が背負ってきた「女だから」という看板は非常に重たく、人生をかけるだけの価値のあるものであったに違いない。

一方で、生駒の言い分も理解できる。自分の職業倫理に従うのであれば、どんな時でも、たとえ自分の人生や「女だから」という看板が傷付けられてでも、職務に忠実であるべきではなかったのか、と。



生駒はおそらく30代の女性刑事だろう。大学進学も、働く女性も当たり前になってなお、男性社会で生きていくためには、否が応でも「女性だから」を背負わなければならない。自分の仕事だけではなく、見ず知らずの先輩たちの評判でさえ自分のキャリアに関係する。そのヒリヒリとした状態で自分の人生を選択している。生駒にとって、高畑は尊敬すべき素晴らしい先輩だった。尊敬すべき女性だったからこそ、彼女が最後まで自分の理想ではなかったことに落胆したのだ。


その生駒が、女性だからという理由で手ひどく追い返されるシーンがある。殺人を自供した家政婦・松原しおり(菜々緒さん)の取り調べのシーンだ。

しおり「刑事さん、あたしのこと馬鹿にしてるでしょ。男女平等とか思ってそうよね。女を売ってお金を稼ぐなんて意識が低いって見下してる。夜の仕事をしてた女はそういうのに敏感なの。あなたとは喋りたくない」

「女はダメなんだ」という声は、女というカテゴリーに投げかけられる。自分の振る舞いだけではなく、自分以外の女性の振る舞いが、自分の価値を毀損することがある。その気負いが、被疑者を「正しく導く」という方向性へと走らせる。その「上から目線」が、しおりにしてみれば虫唾が走ったのだろう。「女だから」がここでも衝突する。


女性だから女性の気持ちがわかる、というのは嘘だ。そんな単純な話ではない。人は人の気持ちはわからない。分かり合えない者たちが、分かり合えない前提で、物事を成し遂げるにはどうしたらよいかを考えないと、うまく回らない。もっとも、これは男女に限った話ではない。


働く女性でも、生まれ育った時代が10年違えば価値観も変わる。40代、50代のバリキャリ系女性たちが、子どもを実母や義母に預け、仕事に邁進し、キャリアを掴む姿を見て、20代、30代の後に続く女性たちは「あそこまではできない」と道を諦める話も聞く。上の世代の女性たちは、もっとアグレッシブに、自ら意欲的に仕事をしなさいという気持ちもありつつ、今は時代が違うのだからと新たな方法を模索している。


以前、40代後半の女医さんとお話ししたときに「育休を取らせてくれるなんて、なんていい上司なの!」と感動されたことがある。同じ女医なのに、たった15年やそこらでこんなに考え方が違うのかと、驚愕した。だが、育休すら取れなかった時代を生き抜いてきた先輩たちがいたからこそ、今の私がいる。同じ女医でも、時代が違えば価値観も考えも大きく違う。それを意識しておかないと、「女性だから」という言葉ばかりが衝突する。


行動と人格を切り離す


秀子と生駒のやりとりを見ていた真壁は、口を挟まず、じっと秀子の発言に耳を傾けていた。真壁は基本的に、被疑者や参考人のことをジャッジしない。価値観の相違や、性別や、職業などで良し悪しをつけない。ただ職業上の倫理観に従い、人の命は尊く、人生は価値あるものだという信念に基づき発言をする。(これは真壁に限らず、キントリのメンバーに共通している点でもある)秀子といい、しおり「といい、真壁の中立な姿勢がふっと被疑者に口を開かせる。


行動と人格は分けて考えるものだ。だが行動と人格を一緒くたにして考える傾向が社会全体にある。ミスをした瞬間に「あいつはダメなやつだ」というレッテルが貼られ、存在そのものを否定されることはある。人格を否定されたら、そこから這い上がることは難しい。たった一つの失敗で人格を全否定され、排除される人間もいる。一方で、高い人格を持っているからとすべてを完璧に行うことが要求される場合もある。

行動と人格が密接に関連づけられるからこそ、秀子は私生活においても厳しい自制心を持ち続けた。些細なトラブルが、仕事だけでなく、女という人格そのものも攻撃されると知っていたからだ。それは生駒も同じで、日常に紛れる「女なんて」というささやかな侮蔑を放置すれば、いつかそれが自分の身を滅ぼすかもしれないとうい危機感があった。だからこそ、「女性だから」という同僚の安直な発言に細かく訂正を入れる。(その彼女でさえ、高畑の行動を知ったときに「あなたみたいな人が」「尊敬していたのに」と人格に言及している。行動と人格を切り離すのは難しい)


女は、望んで女に生まれたわけではない。だが女として生まれついた限りは、女という人格で見られる。優秀な仕事をして、男性の嫌味やヤジはさらりと交わし、常に美容面で手入れを怠らず、清潔感のあるさっぱりとした外見を求められる。何かにつけてコミュニケーション力の高さ(おじさんが変なことを言っても笑っていなす能力)や、外見の良さを求められる。すっごく女って不自由だと思う。

それでも今は「女だから○○だ」なんて言おうものなら、「それはおかしい」「性別ではなく個人として尊重されるべき」「男女関係なく、円滑なコミュニケーションや気配りや清潔感のある外見は美徳である」と言い返せるようになってきている。第三世代の生駒があれほど激しく反論できるのは、反論してもしても仕事を奪われることはない、結果を出せば認められると信じているからであり、その土台を作ったのは、反論する気力も余力もなかった第一世代の秀子や、第二世代の真壁たちだろう。


これからもっと、色々な働く人が出てくる


私は今32歳で、育休産休時短は当たり前、という時代で生きている。これからは男女ともに、個人の事情を抱えながら仕事をしていく時代になるだろう。きっと私も「ちょっと理解できない」と感じる若い人と出会うだろうし、若い人からすると「あなたみたいな人が」と思われるかもしれない。

わずか77年前まで、女性に参政権はなかった。女が政治に投票するなんて考えらえないことだった。40年前まで、女性の管理職なんて理解できない概念だった。それが時間をかけて、長くも、しかし10年単位で大きく変わってきている。

これからもきっと、新しい考え方が出てくるだろう。私自身の考えも、変えていかないといけないだろうと、三世代の働く女性を見て考える正月だった。




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