テーブルマナーで食事という試合に挑め

ちょっと乗り遅れた感はあるけれど「箸の持ち方を気にするか気にしないか」論争に乗っかって、私の考えを書いてみます。

正しいとされるお箸の持ち方をしていない人を見ると、私は「お箸をちゃんと持てない・持たなくてもいいと考えている人なんだな。」と感じます。それ以上でもそれ以下でもなく。ただ「この人はしかるべきマナーが求められる場所には出られないな。」ということを同時に思います。

ここで唐突にボール遊びの話をしますね。ボールの扱い方は無限にあります。足で蹴ったり、頭で突き上げたり、手で投げたり、人差し指の上で回してみたり、空気を抜いてペチャンコにしてみたり。ひとりで遊んだり馴染みの人たちで遊ぶならば、ボールとの戯れ方は自由です。
しかしサッカーの試合に出るとなったら?ルールにしたがってボールを扱わなければいけません。ルールを知り、ルールにしたがったプレイをしなければサッカーの試合には参加できません。
百歩譲って、アマチュアの仲間内ではグダグダなルールでもサッカー(のようなもの)はできるかもしれませんが、公式戦となると規定されたルールにのっとって行動することは必須です。

食事のマナーも同じだと思っています。和食、フレンチ、中華、etc……食事という点では共通していますが、それぞれ異なるマナーを要求されます。ボールを扱う点では共通していても、サッカー、バスケ、野球が異なるルールで行われるのと同じです。

マナーを要求される食事の場もスポーツのようなものではないでしょうか。ひとりで家で食べる分には、どのような箸の持ち方をしようが自由ですが、共に食卓を囲む人が増えれば増えるほどそれぞれの思惑は複雑になります。ルールを気にせずにプレイする人、ルールが気になる人、これは草サッカーなのか?プロのサッカーなのか?

食事マナーを遵守することに嫌悪感を持つ人は、おそらく「誰が作ったのかわからないルールのゲームに強制的に参加させられている」という状態が気に食わないのではないでしょうか。そう考えると、たしかに気持ち悪いんですよ。誰が作ったのかもわからないのに脈々と受け継がれてきた合理性と非合理性を内包した食事のマナー、そしてそれを遵守するよう強制してくる世間の空気。毎食毎食、変な試合が開催されているようなものです。

「私はそんなゲームには参加しない。」と降りるのは個人の勝手です。しかし、「マナーを求められる食事という公式試合」には参加できなくなります。なので、私は食事のマナーは知っておきたいし、身につけておきたい、そしていざというときには実践できるようにしておきたいと思うのです。変な試合だな、と思いつつも、まぁ参加することにデメリットはないし、と試合自体には出場できるようにしておきたいのです。サッカーでもバスケでも野球でも、いろいろなルールを知って、いろいろな試合に参加した方が、冷笑的な態度をとって遠巻きにするよりも面白い発見があるのではないでしょうか。(そしてサッカーのルールを覚えてボールを操る技術を磨くより、食事のマナーを覚えて食器の扱い方を身につける方が簡単です。)

ちなみに私の母は食事マナーにうるさく、妹と私は日々の食事における箸の持ち方からレストランでのテーブルマナーまで厳しく躾けられました。(私は順調にテーブルマナーを習得しましたが、妹は成人するまで握り箸。親の躾けがすべてでない事は我が家の事例で実証済みです。)

学生時代に食堂にて部活仲間で食事をしていたとき、そんな私の食事姿を見てある先輩がこぼした一言「マリナさんて、貴族みたいに食べるよね。」……なんかちょっと、その先輩とは距離を感じるなぁ、と常々思っていたんですよ。私の「貴族的」所作は、気づかないうちにテーブルを囲む仲間との間に壁を作っている、と気付かされた一言でした。その次の日から、私は少し砕けた振る舞いでご飯を食べるようにしました。ぶっちゃけ、上流階級の人間でもないですし、みんなと打ち解けて楽しくご飯を食べたい。

厳しい食事マナーが求められる場に出られる能力を秘めつつ、私は今日も大口を開けて、和気あいあいとおしゃべりをしながら美味しくご飯を食べています。

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