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私の初恋。乗り越えられなかった性別の壁

はじめに断っておくが、この話は恋愛・LGBTsをテーマとしたものではない。
私が初めて恋い焦がれた職業、歌舞伎役者の話だ。

初めて歌舞伎を観たのは高校生のとき、京都南座でのことだった。

地鳴りのように低く響く義太夫節、その旋律が徐々に速く高くなり最高潮に達したと思われる頃、突然すべての音がフッと途切れ劇場を静寂が包み込む。シャリン、という涼しげな音とともに客席後方の揚げ幕が引かれる。開かれた幕の向こうから現れた歌舞伎役者が、花道に向けて歩を進める。割れんばかりの拍手、力強く屋号を叫ぶ大向こうの声、役者の動きにあわせてバタッ、バタッ、バタタタタタタ、と鳴るツケ。役者が動きを止めるとともにバッタリ、とツケの音が止み、独特の調子で役者が高らかに声を発し、鼓が鳴る。ぃよおぉぉー、ポン。

圧倒的な様式美を前に、私ははらはらと涙を流した。歌舞伎の美しさに心を奪われ、憧憬の念を抱いた。私も歌舞伎役者になりたい。その想いが浮かぶやいなや、0.1秒もたたないうちに絶望する。女は歌舞伎の舞台に上がれない。
梨園(歌舞伎界)でない生まれの私では、たとえ男だったとしても主要な役には就かせて貰えない。それでもよかったのに。立役(男役)にバッタバッタなぎ倒される端役で良いから、あの暴力的なまでに美しい世界の一部になりたいと思った。
しかしどうあがいても女の身体で生まれた私は、絶対に歌舞伎役者にはなれない。今生では絶対に。
幸せな涙は、一瞬にして悔しさに染まった。

※元々歌舞伎の祖は女性で、長らく歌舞伎は女性が演じていたという歴史の話は今はしない。現代歌舞伎の話である。

女性も舞台に上がれるアマチュア歌舞伎をやればいいのかもしれないが、そういう問題ではない。
私が歌舞伎に心を動かされた要因の一つに「女形」の神秘性がある。男の役者が女を演じる女形。男の姿を持つ肉体が、女形の手にかかると女にしか見えなくなる。素の役者から、骨格さえも変わってしまったかのような変貌ぶりだ。
これはどうしても男の肉体を持っていないと表現できないことだ。肉体の性別を超越して別の性を表現する面白さ。性別を逆にすると「宝塚歌劇団」がまさにその醍醐味を持つ演劇である。きっと宝塚歌劇団への入団を夢見つつ、涙を飲んだ男性も多くいるに違いない。

初めて強く憧れた職業が、性別的に絶対になれない職業であることに絶望してから約20年。
ある芸能ニュースが目に飛び込んできた。

歌舞伎界の実質トップである成田屋、市川海老蔵さんが長女・麗禾ちゃんを「女性初の歌舞伎役者」にしたいと語った、というニュースである。
海老蔵さんはこう話したそうだ。

「歌舞伎が今のかたちになってから200~300年という年月が経って、そろそろ考え直す時期にきている。(中略)性別を理由に女性が歌舞伎をできないことが、僕にはわからなかった」

かっこいい。さすが歌舞伎界の(元)問題児である。
市川宗家の海老蔵さんが推し進めるのなら、伝統にこだわる歌舞伎界も変わっていくのではないだろうか。すでに2017年、海老蔵さんは主演をつとめた六本木歌舞伎(伝統歌舞伎ではなく実験的な場)で、寺島しのぶさんを舞台に立たせている。名女優である寺島しのぶさんは、成田屋に並ぶ歌舞伎の名門・音羽屋(尾上家)の長女である。歌舞伎の家に生まれながら女であることが理由で名跡を継げず、辛酸を舐めさせられてきた一人だ。

歌舞伎の家制度は変わらないだろうが、女への門戸は開かれるかもしれない。
「梨園の男に生まれたい。」という私の来世の夢が上書きされた。
「梨園に生まれたい。」シンプルになった。
きっと私の来世では、男の歌舞伎役者が女形を演じる横で、女の歌舞伎役者が立役を演じている。

あと、贅沢言わせてもらうと中村屋に生まれたいです。ダメなら弟子入りします。
神様なにとぞよろしくお願いします。

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