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文化系のマラソンデビュー

気温10℃。スタート時には小降りだった雨が徐々に強くなり、10分も経つ頃には本降りになっていた。宇治川流域の濡れたコンクリートの路面に交互に足を叩きつけ、脇腹に痛みを感じながら私は虚ろに前方上空を仰いでいた。
折り返し地点はまだか。

宇治川流域といえば源氏物語宇治十帖の舞台であり、平等院鳳凰堂がある歴史的な見所の多いエリアである。
10kmやハーフの部のコースならば、もしかしたら歴史の薫りを楽しみながら走れたのかもしれない。しかし私がエントリーしていた5kmの部は、スタート地点の総合運動公園からようやく市街中心部に近づいたところで折り返すため、宇治川を見ることさえ叶わないまま淡々とコンクリート上を走り続けるストイックなコースになっていた。

つらい。
何が悲しくて私はパンツまでぐっしょりと雨に濡らし、身体の芯まで凍え切って、ハァハァ息を切らせて走っているのか。
つらい。

折り返し地点が見えてきた。淡々とした5kmコースの折り返し地点もまた淡々としておりドラマチックさはない。
ただ、リタイアすることなく折り返すことはできたみたいだ。
あと半分。この苦行もあと半分。

強くなる一方の雨。
もう、マラソンをしているのか水泳をしているのかわからないぐらい長袖長ズボンのジャージが重たく濡れている。冷えすぎた筋肉がキシキシする。

ゴールできるのか、これ。肺と脇腹が痛い。


折り返して少し経ったころ、ふっと身体が軽くなった。まるで憑き物が落ちたかのように。心臓から送られた熱い血液が力強く全身に回る。肺がほぐれて指先に熱が戻り、おのずと背筋も伸びた。脇腹の痛みがすっと引き、足取りが軽くなる。

何だこれ。
前半は何だったのか、妖怪でも憑いていたのか。
この軽さならばどこまででも走れるような気がする。
肺と心臓と筋肉が、気持ち良い連携プレーをしているのが感じられる。

呼吸と、鼓動と、足の動きが、滑らかに連動する。

景色は相変わらず愛想がなかったけれど、自分の身体の面白さを感じるだけで十分だった。十分に面白いのであった。美しく噛み合った歯車が、タッタッタッと回る様を飽きるまで見ていたい。

学校の長距離走ではすぐにやる気を無くしダラダラ歩いていた私が、ゴールが近づいてくるのを名残惜しく思うだなんて。
ああ、ゴールだ。

土砂ぶりの雨の中で『ショーシャンクの空に』ポーズをし、ゴールすぐの給水所でボランティアの方に温かいお茶をもらう。
うーーん、お茶。滋味深いこれは宇治茶ですか。

少し遅れて、仲間がゴールした。
そのしばらくあとに、10kmの部に出場した仲間たちも。


ずぶ濡れのジャージをみんなが絞るものだから、更衣室の床は湖面となっていた。
乾いた服に着替え、頭をタオルでこすりながら女子の仲間たちと更衣室を出る。更衣室前で部活仲間が男女揃って集合する。
みんな爽やかな、達成感に満ちた輝いた笑顔になっていた。
部長以外は。

「自分ら、なに気分良くなっとんねん!罰やぞこれは!」
部長が怒声を浴びせる。

そう。
私たちは映画部。
映画上映会への作品提出締め切りを破った者が、罰として宇治川マラソンにエントリーさせられたのだ。
(ちなみにマラソンに出場したのはほぼ全員。みんなだらしがなかったりこだわりが強すぎたりして、締切までに作品を提出する者はほとんどいなかったのである。)

でもさぁ。
走った仲間同士で目配せする。

これ、罰になってないわ。
しんどかったけど、気持ちよかったもん。
苦しみの先に、すんごい、達成感あるもん。

今思えば「走ること」を罰にするって発想、めちゃくちゃ文化系だったな。
だいたい映画部に入るようなやつは根っからの文化系であり(偏見)、小中学校の運動会ではクラスの運動ができる人気者のことをじっとりとした目線で見ていたやつばっかりで(偏見)、走るのなんて嫌で嫌でしょうがなかった人間が集まっているのだ(偏見)。私だ。

罰として課せられたマラソンで、期せずして私は「走ることの楽しみ」を知ってしまった。

マラソン大会に出場したのはその一回限りだが、それ以降私は、いつでも走り出せるような靴を好んで履くようになった。

その2年後、大阪有数のビジネス街である本町からターミナル駅の梅田まで、大阪地下鉄御堂筋線に乗るかわりに夜な夜な街を疾走する仕事帰りの女が現れるのだが、それはまた別のお話。


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こちらの企画に参加しています。

企画主催者の神屋伸行さんはランニングクリエイター。
プロフィールページには記載されていませんが、駒澤大学の選手として箱根・全日本・出雲駅伝(三大駅伝)12回フル出場、優勝6回。ほか数々の大会で優勝多数。
えげつない経歴の数々をお持ちです……。
神ですか……。
神屋さんだけに。

そんな神屋さんと、まさか画面越しに文章で「走る楽しさ」を共有することができるなんて。noteすごい。


「ランニングの楽しさ」がテーマの当企画、言葉で身体性を伝える文章トレーニングにもなりそう。
レッツチャレンジ!文章の筋トレ!

♡を押すと小動物が出ます。