こんなにもたくさん死刑が執行されて、一人の法律家として思うこと

オウム関係の受刑者の死刑が執行されました。
平成が終わる前に、この事件に一つのけじめがつけられたように感じます。

死刑は難しい問題です。
僕はもともと死刑廃止論者でした。

論点は多岐に渡ります。

<肯定派の論拠>
・犯罪抑止
・応報刑罰
・被害者、遺族感情
・社会復帰後の再犯可能性
・終身刑による国家負担の大きさ
・私人による仇討ちの抑制

<否定派の論拠>
・不可逆性(冤罪の可能性)
・殺人の肯定
・国家による殺人を求める者の存在
・死刑執行者への副作用

肯定派の論拠から見ていきます。
犯罪抑止に関しては、他罪とくらべて死刑が犯罪抑止効果を持つという科学的論拠がなく、また実証されていません。アメリカの研究者たちがかなりいろいろと「死刑は犯罪抑止に役立つんだ」論文を作ったりしたんですが、「主張の域を出ない」とされているのが実情です。

応報刑罰という視点についても、生命を奪うという行為が許されるなかで、なぜ拷問刑や市中引き回しという体罰刑が許されないのかがうまく説明されません。

被害者感情に寄り添うというのはかなり難しいです。被害者の感情が強くないのであれば罪を軽くしていいのかという逆の疑問も生じる点、そして国家が刑罰を下す際にどこまで被害者感情を考慮すべきなのかは「決めの問題」とされる点に難しさがあります。

社会復帰後の再犯可能性については、日本にはないですが、終身刑に代替できます。

私人による仇討ち防止は、そもそも死刑以外の懲役刑受刑者に対する仇討ちが抑止できている点でほとんど論拠となりません。

次に否定派です。
不可逆性、こればかりは正直法律家として否定できないほど強い論拠です。
裁判は、真実を証明する場ではなく、有罪を前提としているポジションと、無罪を前提としているポジションの双方によるディベートですので、裁判員裁判になった今や、本当に怖いのが冤罪です。
他方で、自白している現行犯など、冤罪の恐れがない場合は、この論拠は当てはまりません。

殺人の肯定とは、国家による殺人(死刑)の法的根拠がよくわからない(説明できない)という点です。つまるところ、民主主義国家においては代議士らがそのようなシステムを導入したからという話になるのですが、行くところまで行けば「ある要件を満たした人間を国家は殺すことができる」ということになります。
西欧諸国では、歴史への反省と宗教的な価値観(純粋な民主主義ではなく宗教的修正の入る民主主義)のもと、これに強く論拠を置く説明が多いです。

国家による殺人を求める者の存在とは、死刑になりたくて事件を起こすタイプの犯罪のことです。ただし、私の知る限り、死刑制度がある国でこのタイプの犯罪が増えているという学術的な論文等はないかと思います。

最後に、死刑執行者への副作用ですが、いかにシステムを構築しようにも、死刑執行者への精神的な負荷は相当なものです。
ですので交代かつ複数で担当し、一人に負荷がかからないように作っていますが、これがどこまで機能しているのかは実はかなり曖昧です(実際に病まれる方もいます)。

以上見てきましたが、僕は最初にこのディベートをしたのが西欧系の国に留学中だったこともあり、また法律家でもあることから死刑廃止論者にかなり近しい思想を持っていました(し、今も持っているようにも思います)。
他方、松本智津夫死刑囚を始めとするオウム事件の死刑囚含め、あまりにもこの世界に罪を遺した方に対して、死刑以外の形で罰を下すことの難しさも感じます。終身刑のコストは半端じゃないですし、いつまでも生き続けることへのカルト的な信仰も恐怖になり得ます。

そんなわけで、最近は、徐々に死刑肯定にも傾いていますが、それでもなお法律家として、国家(に委託された誰か)が、人間を殺すこと自体に強烈な違和感を覚えますので、やっぱりある程度のコストがかかっても、終身刑を導入して欲しいと考えます。
被害者と加害者の歪な関係が、時間を経て変容していくことも、色んな事件の結果からみえていることもあります。
法律家としては、少しでもそこに希望を見出したいのです。

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