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不登校 はっきり言ってとてもつらい。

10歳の不登校youtuberの子が話題になっていた。とても辛くなった。自分も何か意見を述べたいと思ったが、うまくまとまらない。不登校のケースは人それぞれだ。自分の記録を残すことで何かの役に立てばいいと思う。いや役になんか立たなくてもいい。このnoteでは不登校の事を詳細に章に分けたりして書いていこうと思っていたが、まあ、ざっくりでも書いてみる。前に書いたこともかぶってますが。急いで書いてるので後で直したりもします。


輝かしい思い出でもない、自分はよく頑張ったとも思っていない。辛かった。本当に辛かった。よく生き延びたなと思う。14歳で小児心身症外来に駆け込まなければ、死んでいたのではないか。その後も辛い事はたくさんあった。命を省エネモードにして最低限維持していくためにその後長く鬱病を患ったのではないかと思う。パニック障害は、自分が追い詰められて危険な状態だという事を自分に教えてくれていたのだと今になって思う(産後また鬱とパニックにお世話になっている)

私の場合は

家庭に居場所がない事のストレス、それが学校の人間関係の不安に繋がり、登校に支障をきたすほどの心身の症状が出て、学校に行けなかった。

行けない事が辛く、将来が不安で仕方がない。教師からは「お前の内申書は終わった」と言われる。また行けない事で引け目を感じる。人の話し声や視線がものすごく辛い。クラスメイトから何度も訪問や手紙を受ける(内容は「卑怯者」「ズル休み」「おかしいよ」等、チャイムや電話が今でも怖い)体育の時間にボールをぶつけられたり、自分の上履きが真っ赤に染められていたり、部活で使う物が壊されたりなくなったりすることもしょっちゅうだった。

平然と、登校し、座って授業を受けられればよかった。不安で震える。怖くて仕方がない。自分の気持ちと自分の体を乖離させ、なんとか痛みを感じずに肉体だけ学校へ行ってくれないかと思っていた。そのうちに離人感というものとお友達になった。

身体もものすごく調子が悪い。あまり食欲がない、自律神経がやられているので、便秘または下痢を繰り返す、頭痛、吐き気、めまい。ひどいのはふらつき、起立性調節障害の症状で「朝の会」などではとても立っていられない。体育の授業もとても受けられない。休むとズル休みだと言われる。

親は発狂する。「学校へ行きなさい」の一点張り、話などろくに聞いてもらえず、否定されるだけ。人間関係は全て、お前の被害妄想だと言われる。「学校に行かない人は義務を果たしていないので、権利を受ける資格がありません」(間違っている。もう一度勉強し直してくれ。)などと言い、食事を与えてもらえない、妹弟と差別化して扱われる。殴られる、ものを投げられる事もあった。親も必死だった。母は何せ勤め先が公立学校の人だ、筋金入りの田舎教師である。価値観のアップデートなど急には無理なのだ。

当時のド田舎では、不登校の子や親をサポートしてくれる場所などなかった。今ほど知識の共有もされていなかった。不登校の子が昼間に一人で勉強に通える場所もなかった。母は働いているので、主に祖母と過ごしたが、祖母もやはり登校できない私を「小卒!!水商売でもするんか!!」等詰め寄ってくるので、安心しては過ごせなかった。誰もいない隙を見て台所に行き、カップラーメンを食べて過ごした。朝と夕方は怖くて憂鬱で泣いていた。だんだん昼夜は逆転した。母に「お前は人間ではなくなった」と言われた

学校に行かなければ、親に殺されるかもしれない。その思いで登校していた時期もあり、ほどなくして失語症状が出た。やっと登校しても成績が悪いとなじられた。学習のフォローアップなどをしてくれる人はいなかった。保健室登校をしようにも保健室の先生とも折り合いが悪く、いつも「ズル休みのU子さん。あんたほどワガママな生徒には出会ったことがありません」と言われていた。

私はせめて好きな科目くらいはちゃんと勉強したかった。鬱っぽい頭で教科書を開いても、訳が分からなくなっていた。教室に座っていられなくても、勉強はしたかった。勉強の仕方は、わからなかった。

駆け込んだ心身症外来では、大変危険な状態です、よく来てくれました、と言ってくれた。週一でカウンセリングを受け、臨床心理士の先生にありったけの想いを話せたと思う。よく話してくれました、と言ってくれた。先生に何かお母さんに言いたいことがありますか?と聞かれて「学校に行けないことで私を差別しないでください」と言ったことがある。

家で家族の叱責を受けながら過ごすのが辛かったので入院させてもらったことも何度もある。院内学級で勉強するのは楽しかった。皆浮ついておらず、穏やかに自分の課題と向き合っているように見えた。入院すると規律正しく過ごせて、3食きちんと提供してもらえるのが嬉しかった。認めてもらえる気がした。ずっと院内学級で勉強していたかったが、入院もずっとはしていられない。

中学も3年になると受験のプレッシャーがひどかった。担任からは「進学したいのに教室で授業を受けられないなんておかしい」と言われつつも家でテストを受けられるように便宜を図ってもらっていた。「お前は志望校に受からなかったら自殺するだろう」と言われた。私も志望校に受からなかったら自殺しようと思っていた。

どこからか名簿と不登校の情報を手に入れた業者から、塾や家庭教師の勧誘の電話が母宛にかかってきていた。母は私のいるところでもすごい剣幕で業者に「あの子はおかしいんです!!!!!もう手遅れなんです!!!!普通のことができないんです!!!!言うこと聞かないんです!!!精神がおかしいんですよ!!だから精神病院に行っています!!!!わかりますか!!!」と言っていた。結局何十万も教材を買わされて、何十万も払ったからやれ、とすごい量の教材をただ私の部屋に置いていった。

高校は、私立の自宅から近い通いやすいところを選んだ。不登校の子を受け入れてくれ、適応教室があり、適応教室に逃げ込めば授業出席扱いにしてもらえた(そのおかげで卒業できた)ただ偏差値は低かった。母は「こんな高校に行くなんて末代までの恥だ」と言ったが最終的に応援はしてくれた。高校に合格すると、やっと生きた心地がした。周囲も何も言わなくなった。

不登校の経験を通して獲得したことはよくわからない。ただ辛かった。不登校にならなくても、どのみち親との関係は良くなかったと思う。私の人格の上に、主に母の重い重い期待や願望や、未分化ないろいろなものがのしかかって蓋をしていた。自分のやりたいことなんてよくわからなかった。自分は親に飼われていると思っていた。自分の不登校のせいで母の思う進路をかなえられなかった、母を裏切ったと思っていた。

結局私は、思春期のうちに大事なものを育てられなかったのだ。「人を信じる、自分を信じる、認め合う、他人も自分も尊重する、犠牲にならない、強制もしない、自分のペースで粘り強く目標に向かう、自分を受け入れ、許し、自己有用感を感じられることをする」とかそういうことだ。それが育たなかった私は、20代でとても傷つき、またあるいは人を傷つけた。人に従うか従わせた。癇癪と、無力感と、自己嫌悪ばかりの日々だった。何をしても上手くいかなかった。

親とも上手くいっていて心身が健康な場合の不登校のことは良くわからないけど、学校へ行っているお友達のことがロボットのように思えたりしてバカバカしくなったり教師の言うこと聞きたくねーな、とか思う気持ちはとてもわかる。その場合、2週間くらい学校を休んで好きなことをすると、もう自由に飽きて学校に行くのではないかと思う。

不登校の原因は主に心身の症状で、元気になった子は必ず学校へ行くようになるのだ、とどこかで読んだ。元気になれなかった私も本当は学校へ行きたかった。でも行けないとなると「みんなロボットだ」「学校なんか行かなくてもいい」「勉強なんかよりも大切なことはある」というポーズをとることもあった。(ロボットと言うより村上春樹が「職業としての小説家」の「学校について」というエッセイの中で用いていた「羊的人間」という表現が今となってはしっくり来る。素晴らしい内容なのでご一読をお勧めする。)

結局、教室に座っていることができるのであれば、自宅で学習をするよりもよほど楽なのだと思う。自律してカリキュラムを組んで効率的な学習や運動をこなせる子などいないと思う。授業は退屈でも勉強は役に立つ、自分を守ってくれる、大人になった今は死ぬほど勉強をしたいし、もっと勉強をしておけばよかったと思う(概ね大人になってみないと勉強の大切さがわからない)。件の不登校の子どもに、無責任な大人が寄ってたかってきて、革命家ともてはやされるのはかわいそうだ(親も親だ)。大人はビジネスで、奸計で動いているかもしれない、子どもの将来に責任を持たない。すぐに炎上して鎮火して見向きもされなくなる祭りに不登校の子どもを巻き込むなと言いたい。いつでも軌道修正ができるようにしてあげないといけない。自己イメージに、悪いものを刷り込み、デジタルタトゥーが残るのが、どれほどのことなのか。

学校が退屈な子も、家に居場所がない子も、学校に行けない子も、体が辛い子も、みんなみんなどうか尊重され、守られますように。自分の行きたい方向に歩んでいく力を、信じられますように。もちろん行きたい方向だって何度も修正していい。


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