8年越しの謝辞と120万円の小銭の重み

120万円ほどの小銭は、紙袋がちぎれるくらい重かった。

色んな「日常」が壊れた2011年3月11日から1か月も経たない4月初旬のことだった。私はちょうど高校2年生になるとき、約120万円の小銭が入った紙袋を渋谷のど真ん中で持っていた。そう、3.11(当時は名称が決まるか決まらないかくらいだった)への義援金を街頭募金で集めたのだった。

2011年3月11日、私は16歳で高校1年生だった。テスト明けで学校がなかった私は、あの地震の揺れを、東京の実家でひとりで経験した。津波の様子も、原発事故の様子も、テレビで見ていた。未来への不安というより、東北の被災地や東京の混沌とした世界を、現実のものとして受け止め、頭と体で理解するのが精一杯だった。

日常の当たり前がなくなった。学校も終業式も遊びの予定もなくなり、テレビではいつもの番組をやらなくなった。延々とニュースとACのCMが流れていた。

家で何もせずに本を読んで、facebookで友達の状況を確認するだけ。私は家にいて何もしないままでいいのか。そんなモヤモヤがずーっとあった。

当時、私は「HOPER」(ホーパー)という国際ボランティア団体を予備校のメンバー10人ほどでやっていた。すぐに彼らに声をかけて、「街頭募金をしよう」とメールした。(時代を感じる。)

たぶん3月15日くらいだったと思う。新宿と原宿で、ボランティア団体のメンバーと予備校の仲間が30人ほど集まり、制服を着て街頭募金をした。

意外と街には歩く人の姿がみられた。多くの外国人の方が、「外貨でも大丈夫?」と言って募金してくれたのを今でも覚えている。彼らはただ、たまたまその期間日本に旅行に来ていただけなのに。異国の地で天災が起きて、不安だけど何もできない状況のなかで、募金してくださったことに、ただ胸が痛かった。

その1日の活動で、20-30万円集まったと思う。後日、郵便局で赤十字社に振り込んだ。

その日の活動が終わり、表参道にあった予備校の校舎に参加者が集まった。その場の振り返りで、たしか「今度はポスターやらロゴやら色々準備して、もう一度しよう」という話になった。

で、次回はことが少し落ち着いて新学期が始まる前、4月2日〜4日くらいの3日間で、もっと色んな場所で分かれてやろうという話になった。

当時はメールが主な連絡手段だったので、メーリングリスト作って、メンバーたちがそれぞれの友達に呼びかけてくれた。

その間に、警察署や店舗への道路の使用許可、人の配置、アナウンス、ロゴ・ポスター・募金箱の制作などをメンバーで集まってやった。お店の人は、「高校生なのにすごいねぇ」と言って、ご好意で活動させてくれたりした。本当にありがたい。

ちょうど、「東日本大震災」という名前がついた頃だった。

他の高校生の団体が募金活動をしていて、私個人で手伝いに行ったりもした。「何か私にできることがあるならやりたい」。そんな想いだった。

ある日、私は他の団体の募金の手伝いに行くか迷いながら、家族でお昼ご飯を家で食べていた。食べながら「ご飯を十分に食べれない人もいるのに、私はこんなのん気にしていていいのか」と思い、ご飯の途中で席を立ち、家を飛び出した。そのときの衝動は、今も鮮明に覚えている。

前もって準備をいろいろした結果、4月初旬の3日間で高校生100人ほどが集まった。冗談抜きに、知らない人が9割だった。友達の友達がまた友達を誘って参加してくれたりもした。

自由が丘、成城学園前、表参道、原宿、新宿、吉祥寺などで募金活動をした。ボランティア団体のその土地に詳しいメンバーがその場を率いてくれていた。毎日、終了後に表参道の校舎に集まったが、有志だったので、活動場所が違ったり、途中参加だったりで直接会えなかった人もいる。

まだ少し肌寒かったので、近くの店の人がお茶や差し入れをくれたりした。予備校スタッフの人も快く場所貸しを受け入れてくれた。(今は似てる仕事をしてるので、ただ感謝しかない。校舎開けてくださったりありがとうございました。)

そんな周りの人の温かさもそうだけど、なんと言っても、知らない人や友達の友達の呼びかけで、集まってくれた同年代の高校生の温かさも感じた。

高校生でも、何か今できることをしよう。

それがたまたま、制服を着て東京の街頭で募金することだった。現地のボランティアに行きたい気持ちも十二分にあったけど、大体は18歳以上じゃないと行けなかった。

この想いが、100人もの人に伝わったのが本当に嬉しかった。その想いが、3日間の募金のあと、郵便局の集計が終わって手にした「振込額 120万円」っていう額に詰まっていた。

振り込んだあと、赤十字にお金が渡ったあとは、もう何もできなかったけど、ネットで金額と開催報告をして、参加者のメーリングリストにも感謝のメールをした。

100人ほどの人を集めてまとめることも、120万円ほどの小銭を持つことも、これからの私の人生で、もう一度あるかどうかわからない。

たった1つ言えるのは、私はここから、自分が変われば世界が変わるということを学んだ。頭で身体で感じた。自分の想いを口にして行動にしたら、必ず何かが変わる。そのあとも色んな活動をしてきたけれども、エネルギッシュ・アクティブだねと言われるけど、紛れもなくこの募金活動が原体験である。

つまるところ、3.11のとき、制服着て募金活動したな、っていう当時、高校生だった人、高校生に場所貸したな〜っていう大人の人、郵便局の人、赤十字からなんかもらった人。そして、高校生に募金したな〜というすべての人に「ありがとう」と言いたい。あなた一人がいなかったら、私や色んな人のもどかしさや想いは形にできなかった。1mmでも誰かにプラスの影響を与えられなかった。

今はSNSで拡散できるし、出会う人の幅が増えたから、募金のあと、世界のどこかですれ違ってるかもしれません。だから今、「あのとき関わってくれた人に1mmでも感謝の気持ちよ、届けーーー!」という想いで書いてます。本当にありがとうございました。私の原動力の一つですし、皆さんのそうでもあったら、嬉しい限りです。

いまの私から、あのとき関わってくださった全ての方に、今更ながら感謝の言葉を送ります。

皆さんの想いが詰まった約120万円の小銭は、紙袋がちぎれるほど、本当に重かったです。

あの時は本当にありがとうございました。また世界のどこかでお会いしましょう。

2018年11月9日 公開

2018年11月24日 一部修正

2019年3月11日 8年越しの謝辞と変更し、一部修正しました。
何も変わらない日常を送れることに感謝しています。働き始め、実施した募金活動で集まった金額の重さを十二分に感じるようになりました。3月11日は背筋をピンと正す。毎年3月11日、そのときの私ができることをしようと思います。

鳥井美沙

#原体験 #東日本大震災 #街頭募金 #私の原体験 #みの編ライターチーム #3.11 

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