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UIに身体が投影されてしまう

コンテンツそのものではなく、UIが心に残ることがどれだけあるだろう。

僕はいくつかその経験がある。まるでUIに自分の身体が投影されてしまったような感覚を覚えたことがある。どちらもテレビゲームであるけど、ふたつほど思い出代わりに書き出してみる。

ICO

2001年に発売されたPlayStation2のゲーム。
育った村のしきたりによって霧深い城に生贄として捧げられた少年イコは、偶然にも檻から抜け出すことができた彼は、城の中で同じように囚われていた少女と出会う。イコは言葉も通じない彼女の手を取り、二人で城からの脱出を目指す。

このゲームにおいて、プレイヤーは少年イコを操作する。左スティックで走り回り、△ボタンでジャンプしたり、□ボタンで手にした棒を振り回したりすることができる。少女はいわゆるNPCであり、ほうっておくとじっとしていたり、ひとりでにふらふらと歩いたりする。イコが彼女の近くへ行き、R1ボタンを押すと彼女の手を握る。R1ボタンを押したまま左スティックを倒すと、彼女の手を取りながら一緒に走り回る。R1ボタンを離すと手を離す。つまり「R1ボタンを押す」というプレイヤーの指の動きが少年イコの「少女の手を握る」という動きに対応しているのである。

このゲームでは少女を狙う影のような敵から彼女を守るため、手を握って走って逃げるという行為を幾度となく繰り返す。そのたびに僕は「この人の手を離さない。僕の魂ごと離してしまう気がするから」というこのゲームのキャッチコピーそのままにR1ボタンを握り続ける。そこに力を入れる必要はないはずなのに、なぜか汗ばむくらいに強く握り続けてしまう。プレイ当時僕は中学生だったけど、まるで自分の指がイコの腕になってしまったような感覚を覚えていた。

ちなみにこのゲームでは設定で「R1ボタンを押し続けるのではなく、ボタンを押下することで手を握る/離すを切り替えるようにする」ことができるのだけど、一度やってみるとゲームが本当に味気ないものになったので、すぐに設定をもとに戻し、二度と触らないようにした。

嘘つき姫と盲目王子

2018年に発売されたPS4/PSVita/NintendoSwitch用ゲーム。
鋭い爪を持つ異形の化け物が美しい声で歌うのを王子様が聴いてしまったのが物語の始まり。ある日、姿の見えない歌声の主にひと目会いたいと思った王子が化け物の近くに行こうとする。化け物は姿を見られたくないと思いとっさに王子の目を塞ごうとするが、その鋭い爪で誤って目を引っ掻いてしまい、それが原因で王子は盲目になってしまう。王子の目をもとに戻すため、森の魔女に「人間のお姫様の姿に変身できる」能力を授けてもらった化け物は、自分が化け物であることを隠し、お姫様の手で王子の手を握り、森の魔女のもとを目指す。
https://nippon1.jp/consumer/usotsukihime/story.html?p=story

このゲームもICOと同じように、ボタンを押し続けることで王子の手を握って一緒に走り回ることができる。しかしそれはお姫様の姿でいるときだけであって、化け物のときは王子の手を握ることができない。お姫様は自分が化け物であることを隠しているので、王子の視力を奪ったその爪で王子に触れることはできないのである。代わりに、化け物の姿でいるときは、行く手を阻む森の怪物たちをその鋭い爪で引っ掻き倒すことができる。お姫様と化け物の姿を使い分けて先へ進んでいくパズル的要素の強いアクションゲームである。

このゲームのUIで印象深いのは、「お姫様の姿で王子の手を握る」と「化け物の姿で敵を引っ掻く」に同じYボタンが割り当てられているところである(Nintendo Switchの場合)。つまり、「王子を傷つけてしまったその手で王子の手を優しく握る」という化け物の体験をプレイヤー自身が追体験させられるのである。化け物は「人間の少女に姿を変える」能力の代わりに、その大事な美しい歌声を魔女に対して代償として支払っている。彼女がそこまでして王子の手を取りたかったことを思うと、自分の本当の手で王子の手を握れない切なさと、それでも王子の手を握れるようになった喜びがプレイヤーである僕自身にも感じられてしまう

お姫様の姿で王子の手を握っているときだけ、お姫様は少しだけ微笑む。プレイしている僕もそれを感じ取り、少し微笑んでしまった。

物語によって自己帰属感が生まれる

この感覚は何なのだろうと思う。

UI設計の分野で「自己帰属感」という概念がよく取り上げられている。『融けるデザイン ハード✕ソフト✕ネット時代の新たな設計論』という書籍では『「この身体はまさに自分のものである」という感覚』と紹介されており、UIの動きなどを通じて操作対象までを自分の身体の延長であると感じられる感覚のことを示している。自分が上に挙げたゲームで感じたのも自己帰属感なのだろうか?

ICOでR1ボタンを押し続けて少女の手を引く操作に関しては、身体操作の同期によって自己帰属感を得られていると考えられなくもない。が、お姫様の切なさをUIを通じて感じてしまうというのは身体操作とは特に関係がない(Yボタンを押せば爪で引っ掻く、という操作に特に身体との同期はない)。しかし確かにそこにはお姫様と化け物の身体、そして想いが「まさに自分のものである」という感覚があった。これをUI設計の分野における自己帰属感と同質なものであるとするならば、UIの動きの連動性などだけが自己帰属感を生み出すのではなく、UIの背後にある物語もそこに寄与するのではないか、という気がしてくる。『嘘つき姫と盲目王子』のプロローグをきちんと読まずにゲームを始めていたら、僕は彼女の身体を自分のものととらえることができただろうか。

最近はUIとそれによって操作されるコンテンツが不可分になってきており、ゲームはその典型的な分野である。ゲームではないスマホアプリなどにおいてもその傾向は強まってきている。自分はWebアプリの設計に携わっているが、そこでの自己帰属感はどうしてもOSやブラウザの仕様に依存しがちなところがある。けれど、上で述べたような「物語」を、狭義の「物語」ではなくいわゆる「コンテンツ」というところまで拡張することができたならば、Webアプリの設計などにおいても新しい自己帰属感を生み出すことができるのかもしれない。

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