猫には今しかない

三匹の猫を飼っている。
十年前の初夏の夜、我が家の庭でびいびい鳴いていた、生後二週間ほどの子猫が一匹。
その子猫を抱いて家に連れてきて、まだ窓の外から鳴き声がするというので探しに出て、お隣の家の庭でびいびい鳴いていた同じくらいの子猫を見つけてもう一匹。
猫が二匹とも10歳を超えた昨年の夏、じりじり太陽の照り付ける暑い日、近所の草むらでぺったんこに干からびかけていた子猫が思いがけずもう一匹。
三匹ともメスである。幸い大病もせずにすくすくと育ち、先住猫二匹はどっしりと貫禄のある中年猫に、新入りの子猫は部屋じゅうを飛び回り、食欲旺盛で元気盛りの若猫になった。

11月か12月には避妊手術ですね。子猫を保護してくれていた動物病院の獣医師が言った。
はい、近くなったら予約します。と、昨夏の私は答えた。
子猫の成長は早い。この前までミルクの匂いのするようなあどけない幼子だと思ったら、冬に差し掛かるころには身体じゅうの筋肉という筋肉が躍動し、まん丸の瞳がらんらんと輝く青年期を迎えていた。
そろそろ避妊手術の予約をせねば、と分かってはいたものの、飼い主である私はどうもぐずぐずとしていた。
ペットの猫の避妊あるいは去勢手術、そして一切屋外に出さない完全室内飼いというのは、現代日本では飼い主の当然の責任とされている。猫の里親募集をしているどんな団体も、ほとんどもれなく上記の条件を引き取り手に課している。
理屈はもちろんよくわかる。望まない妊娠は、飼いきれない子猫を増やすことにつながる。生殖機能を取り除いてしまうことでその器官の病気になることも防げる。発情期のマーキングなどさまざまなトラブルが防げるし、屋外に出せば交通事故をはじめさまざまな危険がある。病気になる可能性だって格段に高くなる。
すべては猫を穏やかに長生きさせるために必要不可欠な対処であって、実際、先住猫2匹を保護した10年前の私は、飼い主として当然の責任を果たすべしと、大きな疑問もなく、猫たちが生後半年を迎えてすぐに避妊手術に連れていった。術後にややぐったりとした猫たちを見て可哀そうだという気持ちはあったものの、すぐにもとの元気を取り戻した。その後10年というもの、二匹は大過なく毎日のんびりと過ごしている。


新入りの子猫も、同じように避妊手術をするべきである―もちろんするのだ。することはもう決定していて覆らないのだけれど、10年前と違い、私の心のうちには割り切れないモヤモヤがずっと消えない。
先住猫たちが窓辺で日向ぼっこをしていると、よく姿をみかけるオスの野良猫が窓の外へと近づいてきてしきりに様子を伺っていた。我が家の猫たちはオス猫に特段興味を示さない。オス猫は、なんだこのお嬢さんたち、全然「その気」にならないのか…と悟ったか、窓枠の中の猫たちにはすっかり興味を失ったように見えた。
そのうちに我が家の庭では、オス猫と、どこかで出会った野良のメス猫がさかんに鳴きかわす恋の季節を迎えた。ふだんの猫の鳴き声とも違い、発情期の猫はまるで人間の赤ん坊がだだをこねるような、背筋をぞろりと爪先で引っかくような独特の声色で切羽詰まって鳴きかわす。
夜半に、鳴き声のやかましさに眉をしかめながら、恋の季節の猫たちはどんな気持ちでいるのだろう、と考えた。全身を燃やし尽くすような、本能からほとばしるような鳴き声は、毎年春先になると人間の安眠を妨害し、私の胸のうちにモヤモヤとした煤のようなものを積もらせ続けた。

さて、新入り猫の避妊手術問題である。
猫を飼い始めて10年、当初のように何の疑いもなく避妊手術を受けさせるには、どうも猫と近しく暮らしすぎたように思う。
思えば、先に挙げた避妊手術と完全室内飼いのメリットは、「健康で長生きすることが目指すべき至高の猫生」という、すべて人間の一方的な押し付けに過ぎない。
猫だって性格は個体によりさまざまだ。そりゃ、健康で長生きすることが一番よ、という猫もいるだろうが、たとえ短い猫生だって、恋の喜びを奪われるなら死んでいるのと同じことよ、という猫だっているに違いない。
そもそも猫の心には未来がない。自分の寿命はあと何年くらいだ、病気が治って将来元気に暮らせるなら辛い治療も耐えよう、なんて考える猫はいない。今この瞬間が辛いか辛くないか。満ち足りているかおびえているか。猫には今しかない。人間は、猫の、今しかない瞬間のすべてを狭い家の中に引き留めて、せめてもと栄養と温かい寝床と、猫には想像しえない未来の健康を献上し、それで自由の代償を払ったつもりでいるに過ぎない。
何度も言うが、私だって避妊手術を受けさせない選択肢はない。とても独善的な理由で、猫をできるだけ長く健康に傍にとどめておくために、猫から本能の恋を奪い、土と下水の匂いのする草むらを駆け回る自由を奪うのだ。

猫と喋ることができたら、と思うけれど、仮に猫の気持ち(たとえば、外に自由に出ることができて、猫のトイレなんか使わずに好きな場所に排泄をして、恋をして、子を産んで、いつでも温かい寝床と餌だけは切らさないでほしいとか)を聞いたところでそれを保証できる度量が私にはない。
愛玩動物とはよく言ったものだ。我ながら卑怯だなぁと思いながら、猫がそばにいる生活の幸せから逃れることができない。

そんな人間のエゴをぐつぐつ煮詰めたような物思いにふけっているうち、新入り猫の避妊手術問題は新たな局面を迎えた。
夜間、一緒の寝室で眠っている猫が、夜通しものすごい声で鳴き始めたのである。発育が良いのか、獣医師の予想よりも早く発情期が始まったのだ。
部屋中を落ち着きなくぐるぐると歩き回り、柔らかな身体を、さらに身も世もなくくねらせて、大声であおん、あおんと鳴く。
ようやく落ち着いて眠ったと思ったら、30分もしないうちにまた鳴き始める。静かな住宅街のこと、ご近所にも鳴き声が響き渡っているのではと考えると居てもたってもいられなかった。
まんじりともせずに夜明けを迎えた私は、それまでの自分のささやかな懊悩などあっさりと手放し、その日のうちに獣医師に手術の予約の電話を入れたのだった。

手術を終え、一泊入院から帰ってきた新入り猫は、以前にも増して人懐っこく、また食欲も旺盛だ。
人間が同じ手術をしたら、しばらくはぐったりとしてまともに動けないだろうに、猫の動物としての強靭さには10年前と同じように驚かされる。
私たち家族を数夜悩ませた鳴き声はすっかり消え去り、夜になると私の二の腕を枕にしてすやすやと眠っている。どれだけ眺めても見飽きないほど美しい猫だが、彼女に恋の季節は二度とこない。それを知っているのは人間だけである。

言葉は通じない。未来もなく、過去も(おそらく)うっすらとしか持ちえない猫の、幸せは何で測れるだろう、と考える。
猫には今しかない。今この瞬間に穏やかに眠っていること、または鼻先を擦り付けて甘えること、喉をゴロゴロ鳴らしていること。少なくともその瞬間、猫はたぶん幸せなのだろうと思う。
身勝手な理由で、あらゆる手段で猫に長寿を強いている人間としては、少しでも長く猫の喉をゴロゴロ言わせることに努めたい。
それで別に罪滅ぼしになるとは思えないが、真夏の草むらで平べったく干からびてしまうよりはマシな猫生である。
猫と違ってもしもの未来を考えてしまう私が、そう勝手に決めたからである。




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