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建築家の住宅論を読む<5>~磯崎新の『栖すみか十二』~

建築家はなぜ住宅を作り続けるのか?磯崎新はこの素朴でしかし根源的な問いを発します。 

建築家 磯崎新は、古今東西の建築に通じ、海外の著名建築家の知己も多く、アートや現代思想を視野におさめた建築批評の論客としても有名な、日本を代表する建築家です。かつて「住宅は建築ではない」と主張し、論争を呼びました。 

建築家の住宅論を読む<5>は、先の根源的な問いを携えて世界の住宅を訪ね、思考する磯崎新の『栖すみか十二』(住まいの図書館出版局、1999年)を読んでみます。 

世界に栖(すみか)を探す終わらない旅。


 『栖すみか十二』では、巨匠と呼ばれる建築家の十二の住宅を取り上げて、手書きのスケッチとともに、それらの建築や建築家をめぐる話題が書簡体で語られます。住宅を訪ねる旅とそこから送られた手紙という見立てです。

 世界から取り上げられた十二の住宅は、必ずしも巨匠たちの代表作というわけではなく、マイナーだが、その建築家の本音が垣間見られるとされる作品が取り上げられています。

 書簡体によるその語り口は平易ですが、ひとつの住宅建築が喚起するイメージに端を発し、古今東西の建築への言及や建築史への目配せ、さらには建築家にまつわるゴシップネタまで、その話題の広がりと深さは、博覧強記の磯崎新の独壇場とでもいうべき内容です。

コルビュジェ《母の小さな家》、ウィトゲンシュタイン《ストンボロウ邸》


 例えば、《母の小さな家》で語られるのは、ル・コルビュジェと水をめぐる物語。建築的啓示をうけたギリシャのアクロポリスが浮かぶ地中海、この《母の小さな家》の建つレマン湖、最後に住んだ地中海を見下ろすカプ・マルタンのキャビン。そして地中海の海で遊泳中に死亡したル・コルビュジェの最期。ル・コルビュジェにとって海は《母親》であり、そして「終の栖」は文字通りその肉体が回帰していった地中海だった。

ル・コルビュジェ《母の小さな家》photo by iJuliAn-Villa LeLac(2015) / CC BY-NY-SA 2.0

 《ロクブリュヌE1027》では、その続編のように、同じカプ・マルタンの岬に地中海に抱かれるように建つアイリーン・グレイのモダニズム住宅の傑作に、まるで嫉妬からくる凌辱行為のように勝手に壁画を描いてしまったル・コルビュジェの暗い激情が語られるます。ル・コルビュジェが死亡したのはまさにこの住宅が建つ崖の眼下の海でした。《ロクブリュヌE1027》をめぐるコルビュジエとの確執を描いた映画『コルビュジエとアイリーン 追憶のヴィラ』は、2017年に日本でも公開され、話題になりました。

 《ストンボロウ邸》は、哲学者ルートウッヒ・ウィトゲンシュタインの手になる「住宅のかたちをした論理」と呼ばれている住宅です。ウィトゲンシュタインは設計図と現実の建築との間の精度を限界まで求めたとされています。「語りえないことがらについては沈黙しなければならない」。彼の著作『論理哲学論考』の最期に掲げられた有名な箴言です。ギリギリの精度を極める行為から、ウィトゲンシュタインは、それでも乗り越えられない差異、つまり世界と言語の間に横たわる決定的な差異(「語りえないこと」)を感得したのではないかと、磯崎新は思考します。

建築家は何故、住居を作り続けるのか。

 
建築家は何故、住居を作り続けるのか。

 《建築》の始まりは、森の中に簡素な構造を組んで人が住んだことだとされています。建築とは、建築とはなにかを問うことと同義であり、それは自ずと始原への遡行を伴う。だからこそ建築家はその始まりである住宅=栖(すみか)を作り続けなけなければならない、磯崎はこう説明します。

 一方で「本来性における住居」はすでに失われているとも語られます。近代はもはや人々が大地に住まうことが不可能な時代だからです。

 それを回復しようと企てたのが「地と大地」をスローガンにしたヒットラーであり、「大地派」のイデオロギーが第二次大戦で敗北したあとに残ったのが「空間派」でした。ル・コルビュジェによる近代都市のスローガン「緑・太陽・空間」においても既に大地は欠落しています。

 「空間派」の勝利はその後の大都市(メトロポリス)の出現で決定的となり、近年のグローンバリゼーションがそれに拍車をかけます。

栖(すみか)の究極の姿、ミース《レイクショア・ドライブ・アパートメント》

 
近代の住宅=栖(すみか)の究極の姿として、取り上げられるのがミース・ファン・デル・ローエの《レイクショア・ドライブ・アパートメント》です。

ミース・ファン・デル・ローエ《レイクショア・ドライブ・アパートメント》photo by paula soler-moya - Lakeshore Drive Apartments (2003) / CC BY-NC-ND 2.0

 このシカゴのミシガン湖沿いに建つ26階建てのガラスのツインタワーは、大地はもとより、場所性をも喪失した非場所であり、空中の立体格子であると、磯崎は記します。

 「全世界の都市をみて下さい。非場所でしかありません。人間は空中に押しあげられ、立体格子に閉じ込められています。鳥籠の比喩がいちばん当たります。だから栖なのです」

 そして今、この立体格子すらが、コミュニケーションの変容で溶けはじめていると洞察されます。インターネット、携帯電話、スマートフォン、SNSなどの普及の結果です。社会と個人の関係性が見えなくなってしまい、近代が前提としてきた人間と外部(社会、コミュニティ、他者)との間の空間形式(住居)が崩れ出しています。

 そうした時代における人と外部との間の区切り(住宅)はどうあるべきなのか。本書から23年たった今もその答えは容易に見つかりそうにもありません。

もはや不在の帰還すべき場所=栖(すみか)を探す旅 


本書がスケッチと書簡体で語られた理由を磯崎新はこう説明しています。もはや、帰還すべき場所はない。不在だから故に帰還すべき場所=栖(すみか)を探す旅に出るのです、と。建築家が住宅を作り続ける宿命にあるのも、また同じ理由からなのでしょう。


磯崎新(1931-2022)

東京大学、同大学院で建築を学ぶ。丹下健三研究室を経て磯崎新アトリエ設立。師丹下とともに大阪万博お祭り広場など国家イベントに携わるかたわら、アートや現代思想など広範囲なフィールドを視野におさめた建築批評を展開。建築界を代表する論客として知られ著作も多数。海外での知名度も高く、国際コンペの審査員などもつとめる国際派で海外での作品も多い。代表作に《大分県立大分図書館》、《水戸芸術館現代美術センター》など。

初出:houzz site


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