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純愛は、量産できない。

愛に、カタチはない。
だけど、愛をカタチにしてしまった、OL民の悲劇。

どうして、こんなことになってしまったのか。
あんなに楽しかったはずの沼はいま、死屍累々。民の心は千々に乱れ、まるで地獄絵図だ。
怨嗟と哀しみに満ち、耐えきれず去っていく者もいる。
人びとのツイートを見るのが、今はこんなにも辛くて、痛い。

放映が終わってからこれまで、沼は民の拠り所だった。
TLを覗けば、自分と同じように感じているひとがたくさんいて、いつしか覗くのが日課になっていた。
流れてくる呟きは終わったはずのドラマを補完し、キャストたちのその後の情報を得るためにも欠かせなくなった。
特に主演の田中圭と違って、メディアへの露出が少なかった林遣都のファンにとって、たまに流れてくるわずかな情報は、まるで日照りの荒野に降る、恵みの雨だった。
まれに悪意を持ったツイートが流れてこないこともなかったが、それでも大半の人がこの作品を愛しているのに違いはなかったから、沼は愛に満ちていた。

本当に、毎日が楽しくて楽しくて、仕方なかった。
世界は、輝いていた。
それはたった一本の、ある深夜ドラマがもたらした奇跡だった。

思えばこんなに毎日がキラキラしていたのは、恋をしてしまったからなのだろう。
春田に、牧に、おっさんずラブの世界に。
ドラマが始まってこの一年半というもの、私たちは、確かにあの世界に恋をしていた。

ファンはあまりにも優しく、愛に満ちたその世界に、少しでも近づこうと呟き、課金した。
そうせずにはいられなかった。
公式が作り出した、この奇跡の世界がもたらしてくれた愛に対し、ほんのちょっとでも恩返しがしたかったからだ。
そうすることが「彼らのその後」を見ることに、少しでも繋がるかもしれないと信じたかったからだ。
それほどまでに、秀逸なドラマだった。

今までだったら一人で抱え込むか、リアルな自分の周囲の人々に話すことで済ますしかなかった、テレビという商業媒体から与えられた感動は、SNSを通し、瞬く間に拡散した。
テレビ局始まって以来の数を記録した見逃し配信。作品に登場した黄色いマグカップやトートバッグ、みかんゼリーなどの小道具を、ファンは夢中になって買い求めた。

実際この作品をきっかけに一躍、時の人となった田中圭が表紙を飾る雑誌は売れに売れ、不況に喘ぐ出版業界の救世主となったのではないかと思えたほどだ。
彼がインタビューやブログで語る、作品についての言葉はドラマを補完し、ファンの熱は冷めるどころか、ますます上昇していった。

こうして共有された思いはさらなる共感と共鳴を呼び、ファンはいつしか「民」と呼ばれるようになり、SNSはそれまで口にすることが難しかった様々な要望を、間接的にテレビ局に伝えられる便利なツールになった。

販売記録づくめのサウンドトラック、公式本、シナリオ本、Blu-rayにDVD…。
2時間で売り切れた『おっさんずラブ展』のチケット、登場人物にまつわるネームプレートなどのグッズの数々。
ファンの想いは遂に劇場版を作らせるまでに至り、公式と民との蜜月はこのまま続いていくかと思われた。
Season2の詳細が、発表されるまでは。
そこに牧の、林遣都の名がないことを知るまでは。

どうしてもっと、待てなかったのか。
せめて一年、いや半年。
劇場版の上映が終わり、円盤が発売され、民の興奮も少しずつ落ち着いていくまで。

逆に言うと、これだけの短期間に映画と続編が作られること自体、異例中の異例だ。
今まで続編を待望されるような作品はいくつもあったが、こんなに早いスパンで作られたのは、前例がないように思う。
どうしてこんなに急ぐ必要があったのか。
それとも、一部でオワコンと囁かれるテレビ業界は、そこまで追い詰められてられているのか。

もちろん、ビジネスには時機が大事だ。
人気商売は移ろいやすく、いつまで続くか分からない。ほんのちょっとの悪意がネットを炎上させ、芸能生命を断たれた人々の姿が毎日ワイドショーを賑わせている。
だから人気のあるときに、売れるときに、売れるだけ売って売り抜く。
それも理解できないこともない。

しかし、センシティブでナイーブな題材を扱う作品だからこそ、本来はもっと、慎重に作らなければならなかったのではないのか。

確かに当初の単発作品は、ある残念なサラリーマンの、同性愛をモチーフにした、ちょっと斬新な三角関係のラブコメディに過ぎなかった。
面白かったが、ドラマで描かれる、主人公の周囲の人々のLGBTに対する表現の部分は、正直私にあまりいい印象を与えなかった。
評判を呼び、それは連ドラ化されるきっかけを作ったが、その事は主演の田中圭の心にも残ったらしく、次の連ドラでは、「誰も傷つけないような優しい世界」を作りたいと思わせた。
そしてその決意が、自身や林遣都の熱演と、吉田鋼太郎の名演を引き出し、本来単なるラブコメディであったはずのこの作品を、極上のラブストーリーにまで引き上げた。引き上げてしまった。

よく、ドラマや映画で共演した男女が、そのまま恋に落ちることがあると聞く。
凡人には知る由もないが、演技をするということは、それだけ魂をすり減らし、役に入り込み、現実と虚構を縫い留める大変な仕事なんだろう。
実際、田中圭が妻子持ちでなかったら、本当にそうなってしまったのではないかと思えるほど、二人は演技を超えて、役を生きてくれたように見えた。

あの最終話の、春田が自分の本当の気持ちに気付き、牧にプロポーズをし、思いが通じ合う、青空の下のレインボーブリッジを背景にした、美しいシーン。
もしもあれでエンディングを迎えていたならば、おっさんずラブはハッピーエンドだが、単なるファンタジーで終わっていたのかも知れない。
しかし、その後のラストのキスシーンはさらに、この作品が単なるファンタジーではなく、相思相愛になった二人が互いを求め、求められる、紛れもない生きた恋人同士である事さえ、見せてくれた。

なんてこった!
好きになるのに、男も女も関係ない。
これは、劇中の荒井ちずの台詞だ。
好きな人が、好きな人と結婚する。
当たり前のことのように思えるが、そんな当たり前のことすら許されない人たちが、この世の中には現実にいる。
だが法律上はともかく、同性同士でも、結婚できるんだ。していいんだ。
好きなら好きって、言っていいんだ。
まさに目から鱗が落ちた、瞬間だった。

世の大半の人には当たり前であっても、一部の人には当たり前ではないそれを、こんなにも明るく、肯定的に、かつ美しく描くドラマが日本で作られたことに、私はとてつもない衝撃を受けた。
ましてや深夜とはいえ、地上波で放映されることなど、いまだかつてなかったように思う。

少なくともこの点は、テレビ局のこの英断を高く評価したい。
これがなければ、そもそも私たちはこの作品に出会うことができなかったのだから。

視聴後の、言葉では言い表せないほどの圧倒的な多幸感を、私は忘れることができない。

こうして『おっさんずラブ』は、私たち視聴者の心を掴んで離さない、名作になった。
だがこれこそがまさに、この稀有な作品が同時に生み出した、悲劇だった。

田中圭と林遣都の演技によって評価されたこの作品が、皮肉にも、その熱演ゆえに続編製作のハードルを高くしてしまったことを、そのとき一体誰が予想しえただろうか。

春田と牧の純愛に涙したファンは、その感動から春田と牧の続編を望んだ。
しかしそれはテレビ局の作りたい、いや売りたいストーリーではなかった。

テレビ局はシリーズ化しやすい、量産できるコンテンツを作り、それを売る。
そのほうが新しく作品を生み出すより効率が良く、一定の顧客もついて確実だからだ。
その手法が間違っているとは思わない。相棒や科捜研の女が、人々に何年も愛され続けるドラマであることがそのなによりの証左だ。
かくいう私もドクターXの大ファンだし、新作をいつも楽しみにしている。

しかし、この作品はそういった類の、取り替えのきく作品ではなくなった。おそらくは、製作陣の当初の思惑を外れて。

何故なら純愛は、量産することができないから。
運命の恋なんて、人生の中で一度あるかないかだ。
簡単に巡りあえるような恋なら、それは運命の恋ではない。
運命の恋を求め、そして巡りあってしまった春田の話は、その時点で量産化のきかない、唯一無二のオリジナルになってしまった。

そして作品のためによかれと思い、身を削って演じたはずのキャストや、現場の製作スタッフの思いを置き去りにして、民のもつ潜在的な資金力は、どこかに金の卵が眠っていないかを、常に虎視眈々と狙っているテレビ局の格好の獲物になった、ということなのだろう。

もし製作陣が、春田にプロポーズをさせずに続編を匂わせる結末を選んでいたなら、ひょっとしたら春田と牧のその後を小出しにするシリーズ化、というのもあったのかもしれない。
その場合、あそこまでの感動を視聴者に与えることはできなかったかもしれないが、それでも大ヒットし、「春田と牧」のコンテンツとして、ゆるゆると作り続けていく可能性は充分に残されていたと思う。
そう、例えばゲイカップルの何気ない日常を描いた、『きのう何食べた?』のように。

あるいは、同性同士のカップルである二人が、さまざまな困難を乗り越えて生きていく、その姿を丁寧に描写するドラマを作ることで、LGBTの新しい未来を描き、前作以上の評価を得る可能性だって、あったのではないかと思う。
個人的には、日本の今のLGBTや、まだまだ社会的弱者である女性が抱える、閉鎖的な状況に一石を投じるためにも、私はその姿を見てみたかった。

テレビ局側もたかが深夜ドラマの視聴者の要望を叶えることが、まさかこんなにもビジネスになるとは、思ってもみなかっただろう。
そこまでは、WIN WINの関係のはずだった。

劇場版の制作を知らされた時、民は狂喜に沸き立った。
春田と牧のその後のストーリーを、今か今かと待ち望んだ。
その後の年頭に知った、テレビ局会長の、年度内の続編ドラマ制作発言。公式からの明確な説明もないまま、三文記事から得た情報は、「田中圭以外のキャストは未定」。
そのことを訝しく思っても、確認する術はない。我々民にできることは、ただ劇場版の公開を待ち望むだけ。

そして劇場版が公開されるまでの、公式からの過剰なまでの供給の嵐。牧の写真が若干少ないと感じる以外は、毎日がまるでお祭り騒ぎだった。
予告によって、少しずつ紐解かれていくストーリー。キャスト達を使った、ファンサービス。次々と出版される雑誌、繰り広げられていく番宣。

公開されてからの、民のいじらしいまでの献身ぶりといったらない。
私だって、もう何度劇場に通ったことだろう。こんなことは今まで生きてきて初めてだ。
さすがに100億は無理だろうと思ったが、民は興行収入のためにせっせと映画館に通った。応援上映も、盛り上げた。
全ては民の要望を叶えてくれた公式のため。春田と牧のさらなる続編製作のため。
次の「第2弾」も春田と牧の話だと信じて疑わなかった。疑いたくなかった。
何故なら、今まで「優しい」公式が私たちを裏切ったことはない。だから当然「次」も、春田と牧の話のはずだ。
だが私たちはいつの間にか公式のことを、あたかも民の最大の理解者ででもあるかのように、錯覚していたのではなかったか。望めばすべて叶えてくれると、過剰な期待を寄せ過ぎていたのではなかったか。

そして「その日」は、ある日突然訪れる。
劇場版が上映中にもかかわらず発表された、牧のいない、天空不動産が舞台ではない「続編」。
それまでずっと、春田と牧のいる世界が映し出されていたはずのSNSは、数枚の写真と、無神経にタグ付けされた言葉で突然終わりを告げられ、さらにそのほんの数時間後に、続編という名のオリジナルのコピーに、置き換えられた。
その瞬間、ドラマに描かれていたはずの「優しい世界」は霧消した。

純愛を描いた連ドラがオリジナルだとするならば、春田の名を使ったこれは2次創作だ。
公式がパロディを製作する。笑えない喜劇ではないか。

ファンは、春田と牧のカップルが好きになった。
武蔵を選ばずに牧を選んだ春田の、これが公式の「答え」だと思った。
だからそれ以外のカップルは2次創作、パロディとして見ることはできるけれども、それ以外を「正解」として見ることはできない。
純愛の果てに結ばれた、ふたり。それ以外に解答はないからだ。

春田や牧が別の相手を選ぶことは、だから「あってはならない」。
最終的に「結婚」を選んだ二人にとってそれはすなわち、「不倫」に他ならないから。
これはモラルの問題であり、田中圭の手塚翔太が、妻の菜奈にキスをするのは許せても、春田創一が牧凌太以外の人間にキスをするのは許せないのだ。
春田の「浮気」なんか、絶対に見たくない。

たかがドラマ、と笑わないでほしい。
たかがドラマ、されどそのドラマが、見る人々の心を震わせ、世界トレンド1位になり、数々のドラマアワードを受賞したのだから。

だからこそよりにもよって、劇場版が上映されているこの時期の、Season2のキャストとその内容には、みな激しく傷つけられた。
春田が牧に「死んでも一緒にいたい」と誓ったその舌の根も乾かないうちに、どの面下げて、別の男?女?と恋に落ちることができるのか。公式は、春田を不誠実な男にしたいのか。
これがキャストが田中圭でなかったら、もしくは別の誰かを演じる田中圭なら、まだよかった。
もしくは劇場版を踏襲しての、文字通りの続編であったなら、状況は180度違ったものになっていたはずだ。民は、歓喜してそれを受け入れただろう。
しかし、主人公の名前は、「春田創一」。
これをタチの悪い冗談か、悪夢と言わずして何と言おう。
しかもそれを公式から突きつけられることは、「さぁ、春田の次の彼氏はこの人だから、応援してね」と言われているに等しい。
「次」って何だよ、ふざけるな、と怒りたくなるファンの心情は間違ってはいまい。
結婚した相手に、「次」などないのだから。

今回の炎上の原因の一つがそこにある。
そして発表されたタイミングが、たとえどんな裏事情があるにせよ、あまりにも悪かった。
それまでのSNSの運用が奇跡的に上手くいっていただけに、天空不動産編完結の告知へのもっていき方も、世界線を交雑させるやり方も、全てが稚拙だった。

今でしょ!と思っていたのは実はテレビ局だけで、われわれ民にとっては、全然今じゃなかったのだから。

果たして、春田の相手を変えることが、こんなにもファンを傷つけるなんて、本当にだれも想像できなかったのだろうか。
これが男女のカップルだったならば、こんなタイミングでキャストを変えることなど、絶対に起こりえなかったはずだ。即座にファンから苦情が殺到し、炎上するのが目に見えているからだ。

だがこれは、男女の話ではない。
だから同性愛をギャグにしたって、誰も傷つかないだろう。視聴者の大半はセクシュアルマイノリティではないのだから。
そもそも同性を好きになるなんて、分からないし、分かりたくない。ましてや、男同士で結婚なんて、ありえない。
とりあえずドラマなんだから、フィクションなんだから、面白ければいい。その時ウケれば何でもいい。
とにかく今なら作りさえすれば、黙ってたって見てもらえる。見てくれるはず。これだけ話題になった作品の、Season2を作ってやるんだから。

そんな、ちょっと古い世代が持つ、一般的なヘテロ男性の持つセクマイへの無知と傲慢こそが、この炎上を引き起こしたもう一つの原因ではないのか。
世界中で少しずつ、同性婚が認められつつある現代の世の中で、いまだにこんな無理解がまかり通っている事実に、愕然とする。
だから日本は、いまだにいくら多様性を叫ぶ人がいても、変わらない。
主にこういった人たちが、決定権を持って社会を動かしているのだから。

思えば、舞台挨拶の時に吉田鋼太郎が、寅さんみたいに春田がいろんな人に好かれて、どんどんこの作品がシリーズ化して、続いていってくれたらいいといった旨の発言は、まさしくこのことを指し示していたのだと、今なら分かる。
同時に、このキャストでやるのはこれで最後だと言っていた、田中圭の言葉も。
おっさんずラブ完結、と言う映画のキャッチコピーはだから、春田と牧の物語がこれで終わりだという、文字通りの意味だったのだろう。

当初の企画の、男同士のちょっと新しいラブコメディ。
それがいつしか、性別を超えた極上のラブストーリーにまで育ってしまったのは、テレビ局にとって誤算だった。 
だがしかし、ファンをここまで惹きつけた部分がまさにそこだと気付かなかったのは、本来、時代を先読みしなければならないはずの業界人にとって、致命的な誤ちだったのではないか。
原作のあるドラマが制約を受けるのと違って、オリジナルだからこそ持ちえたはずの、さまざまな可能性を自ら否定したのは、これからのドラマ製作における可能性を切り開いていく上でも、つくづく残念に思えてならない。

そしてこうなったのは、誰が悪い訳でもない。

今回の続編が、キャストのスケジュールが単に合わなかったからこういう形になったのか、それとも初めから別のストーリーとして考えられていたのかは、関係者ではないから正直分からない。
もちろん、この続編に出演を決めたキャストが悪いわけでも、現場の製作スタッフが悪いわけでもない。
それが彼らの仕事だからだ。

単純に考えても、この作品によって認知度が上がり、育てられた田中圭は、自身の心情とこの続編の行く末がどうであれ、チャンスをくれたテレビ局への恩を返さないわけにはいかないだろうし、深夜とはいえ、折角の民放キー局の主役の枠を手放すべきではない。また彼の事務所もそれを許さないだろう。
そして仮にもし彼が断ったとしても、極端な話、彼の代わりはこの芸能界の中で、いくらでもいるのだ。

現場の製作スタッフにしても同様に、形はどうあれ、折角与えられた『おっさんずラブ』を、同じスタッフでまた作ることができる機会を、断ることで生じる、冷飯を食うリスクと引き換えに自ら投げ出す必要はないし、自分達がやらなければ他のスタッフが、製作を命じられるだけの話だ。

そして、テレビ局も企業である以上、経営の責任者たちが営利を追求し、より利益を上げる商品の販売を促進していくのも、これまた間違いではない。
私たち民が、先を争って課金したことが、悪かったわけでも決してない。
名もなき視聴者が、思いを表すためにはある種、これしか方法はなかったのだから。

だが民の、作品へのあまりにも深い愛によって生み出されたカタチが、おそらくはテレビ局の制作決定権を持つような人たちに、これが金脈だと認知させてしまったのは事実だろう。
それはそうだ。
円盤は飛ぶように売れ、グッズは出せば出すだけ売れ、映画もどのくらいの売上を当初、見越していたのかは分からないが、とにかくこの視聴率の悪かった、おそらくは低予算のたった一本の深夜ドラマが、何億(何十億?)も稼いだのだから。

悲しいのは、牧のいない続編が作られたことではない。
キャスト全員のスケジュールを合わせて続編を作ることがどれだけ大変か、それくらいは素人にだって分かる。
そしてあのストーリーを続けるのは、難しかったであろうことも理解している。
だがせめて、円盤が出るまではこの世界に浸らせて欲しかった。
民は映画化が発表されるまでもその後も、ワクワクしながらずっと待っていたのだ。
だからもうないかもしれない春田と牧の続きだって、何年でも余裕で待てるのだ。

そうやって夢見る自由を、時間を、一方的に新たなストーリーを提示されることで上書きされ、奪われてしまったそのことが悲しいのだ。

何もかもがあまりにも性急だった。
全ての間が悪かった。
夢と虚構を売るはずのテレビ局が犯した、ファンを顧みない行為。
どうせ虚構なら、最後まで騙し続けて欲しかった。なんなら、骨の髄までしゃぶり尽くす勢いで、搾取してくれてもよかった。
あの世界を壊さず、作り続けてくれさえすれば。
そうしたら民は騙されていると知りながらも、喜んでカネを差し出し続けただろう。

芸能事務所が、アイドルや俳優の私生活を露わにしないのは、彼らが紛れもない、夢を売る「商品」だからだ。「商品」が「夢」を壊す要素を極力排除し、守り、ファンの恋心をいかに持続させ、気持ちよくお金を使ってもらうかを考える。それが、彼らのビジネスだからだ。

それがどうして出来なかったのか。
そこにほんのわずかでも、ファンの心情に寄り添おうとする、良心と誠実さがあれば。
ほんの少しでも、ここまでたくさんの賞を取った作品に対する敬意があれば。
それがあれば、こんなにSNSも炎上させずに済んだかもしれないのに。

同性同士が紡ぎ出した愛を描いた、この作品が持つ、ある種の危うさ。儚さ。
それこそがこの作品の魅力であり、ファンは、涙してそれを支持した。
しかし、その商品分析とマーケティングが充分なされないままに、続編が製作されることになったのは、まったくもって残念というより他はない。


若き無名の画家の描いた、一枚の、微笑み合う恋人同士を描いた、小さな絵。
その画家はまだまだ未熟で、絵も粗削りだったかもしれないが、その瑞々しい筆致と色彩は見る人を虜にし、やがてそれは評価を得て、名画になった。

そしてその名画はある日、心なき者の見えないナイフによって傷付けられた。
その絵の何が鑑賞者を惹きつけるのかが分からなかった画家のパトロンは、こんな絵でも、受けるのならどんどん複製して売り出せばいいと考えた。

オリジナルは、オリジナルだからこそ価値がある。たとえどんなに精巧に作られていようと、複製画に大枚をはたく客はいない。
修復された絵にもうその傷跡はなく、一度名声を得た絵画の価値は、上がることはあっても下がることはない。

だが、かつていつでも見に行くことができ、近づいて、愛おしくそっとその表面をなぞることすらできた小さな絵はいま、額縁とガラスを嵌められ、美術館の奥にしまい込まれようとしている。
私たちは今後その名画と、複製された絵を較べて見るときに、その名画の表面に刻まれた、あの傷のことを思い出さずにはいられない。自身の心の、痛みとともに。
私たちはもう二度とその絵を、あの頃の少女のように無垢な気持ちで眺めることはできないのだ。

恋は、実に厄介だ。
それは世界を突然、薔薇色に染めたかと思えば、また突然、奈落に突き落とすこともある。
恋をしているときは、楽しい。一日中でもその人のことを考えていられる。その人のことを思い浮かべるだけで、幸せな気持ちになれる。
私たちは、あの作品に恋をした。
そしてその恋は、予期せぬ形で突然終わってしまった。
ただ、それだけのことなのだろう。

だから、泣いていいのだ。
失恋は、辛い。苦しい。
愛する思いが深かった分だけ、悲しみも深く、辛い。
かくいう私自身も、傷口からはまだ、血が流れ出ている。

中には切り替えが早く、すぐに次の恋を見つけられる人もいるだろう。その恋を忘れられず、数年、いや一生引きずる人だっているだろう。

頭では分かっていても、心はそう簡単には割り切れない。
心は、そんなに単純なものじゃない。

だがいまは、泣いていい。無理に立ち上がろうとしなくても、前を向いて歩き出さなくともいい。膝を抱え、思う存分、気が済むまで、泣いていいのだ。
やがていつか、時が解決してくれるその日まで。美しい思い出に変わるその日まで。
私たちに与えられ、見出された愛は、色褪せることはあっても、決して消えることはないのだから。

ひょっとしたら、大事に育てていけば、まだ金の卵を産んでくれたかもしれない雌鶏が、もう金の卵を産み出さないことに、いつ飼い主は気付くだろうか。
金の卵を産み出さなくなった雌鶏を、飼い主が怒って、潰してしまうのは恐らく、そう遠くない未来だ。

終わらない物語はない。
ドラマが終わった後、続編を求める声に対し、あまりにもきれいな終わり方だったから、ないほうがいいという声も、少なからずあった。
だがしかし、私たちはまた春田に、牧に、どうしても会いたかったのだ。二人が幸せになるその姿を、この目で見届けたかったのだ。

抜けるような青空の下、映画の最後で牧凌太は、シンガポールに旅立った。
映画の内容とラストに思うところはあるが、この終わり方で良かったのかもしれないと、最近やっと思えるようになってきた。
牧は、春田の複雑な心境も、民の狂おしいまでの想いも、それ以外のさまざまな思惑も、すべて届かないところへと、飛び立ったのだ。

人間は、欲深い。そして、愚かだ。もっともっとと、一つが満たされればまたすぐに次を求める。
これ以上続きを求めるのはだから、舞台の幕が降りた役者に、カーテンコールを何度も何度も求め続けるのと同じなのかもしれない。
求められた役者は、ボロボロになるまで舞台のうえで演じ続けなければいけない。
観客がいつか拍手をするのに疲れ、席を立つまで。その役者や舞台にやがて飽きて、見向きもしなくなるまで。


東京では、金木犀はまだ香らないけれど、九月は終わり、十月になった。
人々をあんなに夢中にさせた、『平成最後のピュアなラブストーリー』は、令和の時代を迎えて、完結した。

もう夏は、終わったのだ。
春田と牧に恋い焦がれたこの一年半。
あの狂乱の、毎日がお祭り騒ぎのように楽しかった夏。
だが私は、春田と牧と過ごしたこの夏を、そして心優しき民たちと過ごした日々を、これまでに公式がくれた愛を、忘れない。
忘れたくない。

この沼の行く末も、今後どうなるかは分からない。時間はかかっても互いを中傷したりしない、元の優しい沼に戻るのか。それとも混沌としたまま、やがて自然消滅していくのか。

だからこそ、私は願わずにはいられない。もう二度とこんな悲しい出来事が起こらないことを。
そしてまたいつか、この作品にインスパイアされた、新しい時代の若き才能が、これ以上の作品を生み出してくれる日のことを。
ドラマに描かれた優しい世界が、一日でも早く、実現する日が来ることを。
それまでさようなら、春田、牧。
そして、素晴らしい愛をありがとう。

Love Forever…。

2019年、ある晴れた秋の日に

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